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【2月の振り返り】中旬偏

 以前、書かせていただきましたnoteです。

こちらに続いて2月中旬の振り返りです。


 これまで仕事場の風水は熱心に工夫していたのですが、自宅の方はそこまで熱心にしてはいなかった。理由としては家族がいるから。一緒に住んでいる家族の理解がないとマットひとつ、壁紙ひとつ変えることも難しい。それほどこだわりはないんだろうなという人でもいざとなったらブツブツ言いだす。それを今回はそのものの劣化というやもえぬ事情が味方してくれることになった。

 玄関マットの話です。
 玄関と言うと風水では経済とかお金を現すとても大切なエリアです。そこに対する装飾は良くも悪くも活性化したり弱めたりします。良いことでしたら活性化したい、悪いことでしたら弱くしたいですよね。

 これまでに使っていた玄関マットはもう限界に来ていました。この玄関マットは風水的なことは皆無な状態でした。たまたま家にあったものをそのまま使用していただけでした。それが数年にわたる風雪の影響で劣化してしまいました。こういうものは消耗品でもありますからね。「玄関マットを色とか好ましいものを選んで」妻からの指令に即時即応。Amazonで購入しました。
 モノを選んで、色、サイズ、ポチって、待つ。だいたい2~3日はかかります。荷物が来たら開けてみて、う~ん!違う。即座に返品。そういったことを数回繰り返しました。
 画面では質感まではわからないものですね。色味が違うものもありました。数回繰り返したのちにようやく手にすることができました。


 うちにはメダカがいるのですが、この子たちはまるでわたしの範疇外。メダカの位置までは決めることとは出来たのですが、それ以降はノータッチ。

 とある道の駅でメダカの餌というものを購入しました。なぜか惹かれたんですよね。そういえばうちにもメダカがいたなぁって。それでうちに帰って餌をあげるとよく食べるんですね。とてもかわいかったです。メダカの数を数えると2ひきでした。妻に聞くと「何匹か死んだ」ということ。でも卵からメダカが増えるかも?と言うと「男同士かも」と。

 それは困った。メダカに対する愛情も少しだけわたしの中で芽生えつつありましたし、2という数字はあまり好ましくない。
 というわけで、ホームセンターにメダカを買いに行きました。近くのホームセンターではいろいろな種類のメダカ、熱帯魚も売っていました。わたしたちは一番オーソドックスなメダカを7ひき購入。そしたら店員さんが「細いのが交じったので一匹サービスしましょうか」と言われるので、即座に丁重にお断り。だって数がほしいんですもの。一匹増えたら困ります。9というのが好ましい。10になると話が変わってくる。というわけで、無事に9匹のメダカがいまも水槽の中で元気に泳いでくれています。

 メダカもそうですが、玄関マットも自宅にとってとても重要なエリアでしたので、「相」を改善できたことが何より。
 しかし、こういったことを気にするというか、興味があるというか、自分もしたいと思う人は増えてくるんだろうなと思います。不安定なご時世ですから、誰もが安心や安定、安全がほしいんだろうなと思います。
 玄関マットの色、メダカの数と水槽の位置、そういったことで少しでも快適に過ごせるならその方がいいと思います。
 これも多くの人が思うことなのかな。何事にも法則と摂理がある。思いつきでは決してないし、鍛えてもいない感性なんて山勘と同じことだ、とは師匠の言葉。なるほどなと思います。


 知ってはいたけれど疎遠になっていた人を訪れる。米子市から琴浦町の方に2拠点で活動するためにやって来られた人がいる。数年前に一度だけお身体を拝見させていただきました。左の肩とか手の異常だった。頸が原因ということで手術してもよくならないかもと言われたらしい。それで一度だけ観させていただいた。その人が琴浦にやって来られたとお聞きした。

 何度か訪問させていただいた後、身体を拝見させていただくタイミングができました。頸が原因の左上肢の異常。そのときよりは改善しているものの右側とは違うみたいだ。おなかを調整していくと頸部が緩む。

 おなかは頸をやるときの肝にもなるし、急性腰痛、いわゆるぎっくり腰のときにも肝になる。ぎっくり腰のときには腰をやると悪くなる。悪化して悪化して悪化した挙句、鎮静する。そういうときにもおなかはとても重宝する。悪化せずにぎっくり腰を経過させることができる。ぎっくり腰が癖になっている人はおなかが調整できていないからだ。

 おなかというのは頸に対しても腰に対しても基点となる。そう考えると武士が切腹して頸を切られるというのは、どこか人間の生命というか活動の根源を断ち切る行為だったのかなと思う。

 治っていくとか治る、治ったというのは誰かが決めたものであって、それは本人であることもあれば誰か他人であることもある。壊れることは事故的なイレギュラーなことを除けばたいていが時間をかけて壊れて行っている。治るのもそれと同じか、それ以上の時間をかけて治っていくのだと思う。
 即座に治って、治してもらってまで何をしようというのだろうか。壊れた状態が好ましくないのはわたしにもわかる。でもその前に壊れたものは治っていこうとしているのだともわかる。治ろうとするものを邪魔しないだけでも十分なのではないだろうか。それがわからない人はどうせまた壊してくる。まるで壊したことを自慢するかのように。壊しても治しても少しも偉くはない。身体が治すものだから。


 人の分断ということについて考える。人と人はつながっていて、人は人がいないと生きていけない。誰かと支え合って、助け合っていかないと生きていくことは難しい。実際に食物を得ることも大変だ。畑に行けば野菜があるのは誰かが作っているからだし、海に釣り糸を垂らしたとしても釣り糸や針や仕掛けは誰かが作ったものだ。食べるものや住むところなども誰かの恩恵を受けている。というような乱暴なことではなくても、やはり人はつながっているのだろう。

 人はみんなつながっていて、それによって力を発揮する、本来の力が現れると仮説を立てたとしたらそれを分断することで人は弱くなる。人が弱くなるには人と分断すればいいのだ。わたしは、ぼくは、というと人はおそらく弱くなる。わたし自身、この感覚がわたしを弱くする。

 師匠の動画。清次の小部屋から。全体意識とは。全体意識というものを忘れている。個別意識、いつも自分は、わたしは、ぼくはってやっている。オリンピックだったら日本人選手はってやっている。

 個別意識にいるから分断する。分断するから弱くなる。全体意識でいることは案外難しい。


 これから2月下旬へと入っていくわけですが、目に見えないものだったり、普遍の摂理のようなものに対する興味が尽きない。そういったことを探索しているようです。

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