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ひなまつりから思い出すこと

 

 「ご無沙汰しております」というご挨拶から始める人とお会いしました。なかなかお会いする機会がなかった。機会があってもどちらかが急にスケジュールが悪くなって欠席とか、中座とかでした。それがせっかくなのでほんの少しでもとお時間をいただいてお会いすることができました。

 数年前から存じてはいたのですが、お会いしようという試みは昨年の風が肌寒く感じる季節の頃からで、その頃から考えるとずいぶんと機会がなかったものだと思います。もうご縁はないのかな?とさえ思っていました。それがお会いする機会を得たのでたいへんうれしく思いました。

 季節って楽しめるものだ。ある程度の年齢になったからそういった境地に気がついたのかもしれませんが、季節はわたしが生まれたときからひたすらに繰り返している。毎年のように桜をみていましたし、雪が降っては困っている。ようやく雪が終わりましたが、また一年経つと雪に悩む季節が来る。そういうものなのです。

 節氣や季節を道標として生活のリズムというのを作っていくのもいいもんだ。暦はそもそも農業を中心に考えていたものだから、啓蟄など土に関する名称を付けられているものも多い。わたしたちは日常的に農業とか土にそれほど密着して生きているわけではないけれど、それを土とともに、季節とともに、というふうに基準を変化させてみるのも面白いのではないかと思う。

 ちょうど「ご無沙汰しております」の人は最近農業を始めたらしく、そういったお話になりました。食料危機の問題とか添加物の問題。貨幣経済的な大量消費資本主義経済社会ではなくて、モノとモノが交換されるような農業時代、縄文時代のような世界にあこがれると言っておられました。

 人間の歴史を考えていくと農耕的なこと、土地に作物を作ることで人間は定住し、安住したと思われているけれどそうではなくて、農地の争いから戦争が生まれた。狩猟時代からもそうだが、人間を一番殺す生き物は人間で、出土する頭蓋骨は左上頭部の裂傷が多いそうだ。これは右利きの誰かに何か武器のようなもので殴られた跡。頭蓋骨の傷だからこれが致命傷になっている。

 人間は人間の都合のいいように何万年も前から他を殺めてきた。それが今生きているわたしたちにだけ許されない、なんていうことがあるのだろうか?人間は何万年も前から変わらない。人間が進化するのならば、他の人間を殺めることをやめたときだろう。人間は変わらない。これだけの長い間、嘆き悲しんできても人間は変わらない。生存保存、正義、安全のために人は戦うのだ。


 そういえばこれまで季節というものをさほど意識したことはなかったような気がする。部活動をやっていたから大会のスケジュールとか合宿とかはあったけど。それが2月だろうが8月だろうが、やっていることは同じだったな、と。暑い寒い、雨や晴に対しても無頓着だったな。

 そりゃ雨も降るさ。雨が降ったら体育館で練習になるか、外ランをするか、強制的にグランドで練習するか。栄二が先生に聞きに行って決まるのさ。セミが鳴いたら夏だよ。合宿も終わって、日が暮れるのが少し早くなったら、最後の大会の準備になるのさ。

 季節が何であってもやることは変わらない。季節がどうとかいう神経を麻痺させ続けてきたんだな。それを今更季節を愛でようというのだから、そもそも一からやるような気概でないとわからない。

 多くの現代人がわたしと同じようにやってきているだろう。目の前に通り過ぎることを処理し続けることに費やしてきたのだから。感覚や感情を蓋してまで毎日をめくる。多くの人たちもそうしてきたのではないだろうか。それでいて季節、地球、自然、宇宙のことを理解することはできない。むしろいまからつくっていくべきものなのではないか。

 季節などの環境と自分自身とをわけるものが身体。身体は環境を知覚する。身体は環境から知覚し、身体を作り変える。ドアノブが目の前にあるとき、そのドアノブの形状に手の形を変化させる。開き戸を開ける際にはそのように手の形を変える。身体は環境を知覚し、身体を作り変えるものだ。そう考えたときに季節や地球の環境を知覚するために身体感覚を作り直すことこそが地球の変化、季節の変化のしるしとなるのではないかと思う。


 ひなまつりにはひなあられを食べました。これだけ季節のことをって言っておいて申し訳ないんですが、ひなあられってどうなんだろう?美味しいの?ひなあられって女の子はうれしいんだろうか?ちらし寿司は美味しい。3月3日にはひなあられとちらし寿司。女心はわからない。


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