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【2月の振り返り】上旬偏

 3月になりました。

 ホームページにもブログ的なものを書いたのですが、3月になったとはいえまだ壬寅月のまま。5日の啓蟄を迎えると本格的に癸卯月になります。

 こういったことを書くのは暦を観ながら生活をしているからですが、2月、激動でしたのでやはりそういったことを考慮しながらいろいろな潮目を感じて行ければと思います。

 今回は2月にわがことに起きたことを何となく振り返りたいと思いました。そういったnoteです。


 2月のはじめにオンラインで四柱推命の勉強会をやりました。これは定期的に行っているもので、倉吉市在住のIさん、米子市在住のSさんと行っているもの。おふたりとも愛光流主催の四柱推命講座を修了なさっている。そもそも琴浦町指導室で行っていたのですが、某感染症の流行に伴いリモートに。以後も収束することなくリモートのまま。またいつか、毎回じゃなくてもいいので顔を合わせた状態で勉強会を行いたい。今回の題材は高梨沙羅選手でした。金メダルをとれるかどうかという視点で観ていましたが、結果はご存じの通り。どういうプロセスなのかまではわかりませんでしたが、衝撃的でした。
 四柱推命は占いのように思われていますが、観て行くとそれはそれで人間そのように動いていたり、考えていたりするのが興味深く思います。高梨選手の冷静な対応。そういったところは四柱推命の命式に現れています。高梨選手はなかなかの負けず嫌いな方のようですが、その想いを内側に押し殺した上での対応、さすがだなと思いました。


 2月のはじめは鳥取県は大雪でした。住んでいる地域によって格差はあったようですが、わたしの活動している琴浦町はもれなく雪かきがついて回る状態でした。来る日もくる日も雪かき。午前中に来られる会員さまのためにせめて駐車場だけでもの雪かきの毎日。

 朝はいつもこんな感じでした。夜中には雷が鳴ります。これは鳥取県では雪起こしといい、雷が鳴ると雪が降ります。夜、雷が鳴ると雪が降るんだろうな、明日の朝は雪かきだな、って思いながら眠ります。

これでなんとかお迎えすることができます。一汗どころではない汗をかきます。


 2月は立春でした。本格的に2022年になるのは立春から。ということで風水の配置を変更します。なにせ今年は五黄の年といわれるくらいの年ですから、中でも比較的操作可能な「相」に関しての取り組みをするのはとても重要なことだと思います。

 運命を切り拓く5つの要素というものがあり、それが「命」「運」「相」「陰」「学」。その中でも「命」と「運」はある程度決まっているもの。「相」以降が努力の介入があるもの。「相」人相とか手相、風水です。

 今年はとくに大変な年になりそう。なるだかならないだか、当たるだか当たらないだか、そういったことを考える前にやれることはやったほうがいい。今回もさすがに戦争にはならないだろう、って思ってなかったですか?地震の前もそう、津波の前もそう。そんなことを考える前にやったほうがいい。大きなことを変えることはできなくても、できることからはじめるのが正しいと思います。

 なので、やりました。中央5の鉄風鈴は確実に。しかも今月は中央2なので体調や病気の相。しかもよくない質の悪い病。父親を失う、孤児、身寄りがない。どれもイヤなので対処すべし。


 週明けの頃ですが、いつものお宅へ出張整体に。身体の調整をするのもそうですが、お話をお聞きするのも大切なお仕事。普段誰にも言えないようなこともわたしにはご相談してくださいます。たいていは愚痴が多いのですが、今回はちょっとテイストが違いました。わたしの友人をご紹介させていただき、これまでグルグルとご自身の中で停滞していたものが動き始めた様子。
 ものごとには循環が必要です。流れる水が澄んでいるのに停滞した水は澱んでいます。会社などの組織も同じで、空気の通りがいい組織は溌溂としている。一方で閉ざされた組織には汚職や不正などゆがみが生じてきます。
 氣が滞ると病気になります。病んだ氣、蝕まれた氣が病気のおおもと。そういった氣のことを邪気といいます。氣が動いているのを生氣といいます。邪気があり正氣があるわけではありません。邪気も正氣もともとは同じもの。つまり邪気を祓うと総数が減り、氣が足りなくなります。
 止まっているもの、停滞しているものを動かすことが何より大切なことだと思いました。


 たいせつな投資は自己投資だと思う。ではどういった資本を自己に投資したらよいのだろう。これまでにどういった自己投資をしてきたのだろう。方向性が間違っていたこともあった。撤退することがなかなかできなかったこともあった。費用対効果が乏しいものもあった。そういったものを改めて頭の中でかき集めてみる。
 自分には何もない。空っぽだった。息をただただしていただけだった。
 息をしていた?ほんとうに息をしていたのだろうか?
 吸って吐くというのはひとつの循環です。解剖学的にも生理学的にも循環です。わたしは循環させようとしていたのだろうか。停滞させようとしてはいなかっただろうか。貯めこもうとしてはいなかっただろうか。まずはインプット、とか言いながら。凪の海にも流れはある。凪の状態でも寄せては返している。自然が教えてくれるというのはこういうことなんだろう。


 以上、2月上旬のまとめでした。


 本日もお読みいただき、ありがとうございます。

読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。