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整体を説明するのが難しい

 整体というモノを、誰かに説明するのは難しいことだなって思うときがあって、ほんとうなら、それはじぶんの商品説明が上手くできない、ということにもつながるから、いけないことなんだけれど、なんだか難しいなって思うときがある。

 まず難しいなって思う理由のひとつは、いわゆる整体というものに対して持っているみなさんの一般的なイメージ。他にもあるけれど、今回はこの話をメインに進めて行こうと思います。


 みなさんの整体に対する一般的なイメージ「あぁ、整体でしょ」って言われたりもするし、整体ってこうやってやるもんっていうイメージをそもそも持っておられる人がほとんどだ。


 たとえば「全身やってくれるんですか?」とか。

 「身体って、いろんなところが繋がっているんですね~」とか言うくせに、そういった感じだ。

 身体は切り離して考えることができないので、たとえば単なる肩こり。肩の筋肉が単純に硬くなっているだけ、の状態だとしても、その反射点は足にあったりするので、足を使わない手はないし、おなかにもある。

 肩の筋肉の異常が胃から来ているものだとすると、腕を使ったり、足を使ったりもする。

 そう考えると、単にあなたの訴えの原因が肩の筋肉の異常だけ、だったとしてもあなたの言う全身をやるということにはなるんだろう。

 肩だけしかやらないもんなのかな?


 他には「バキバキってやるんですよね?」とか。ウチはバキバキやりません!とか堂々と言っているところもあるようだが、ひつようならそうなるので、最初からあるとかないとかの問題ではない。

 ただ、日本人はバキバキと音が鳴ることに対して、恐怖心があるから、バキバキしないほうがいいのはいいんだろうな。でも、指を軽く引っ張ってもポキっていうときは誰でもある。それでも「いま音が鳴りましたね」とか言う。じぶんで引っ張っても鳴るだろうとは思うんだけど、それでも怖い。それほど怖いくせに、バキバキしてもらわないと効いた気にならないもんだから不思議だ。ほんとうはそんなことは一切ない。


 「何分やってくれるのですか?」って言うのもよくある。長くやったほうがいいって思っていることが、そもそもの間違いだ。

 これは、時間というモノが等しく流れていると思っていることが間違っている。それは誰もが体感しているはずなのに。

 たとえば、小学生のころ、遠足の前の日ってすごく時間が長く感じた。ワクワクして、時計を何度見ても一分もたっていない。そうかと思えば、放課後、友だちと公園でゴムボールとカラーバットで野球をやって遊んでいるとき。時間はあっという間に過ぎて行った。

 このときの時間の長さってたぶん違う。待ち遠しい時間は実際に長いし、楽しい時間は短い。

 最終回満塁で打席に立っているぼくと、早く帰ってこいと公園まで迎えに来た母親。ぼくと母親のなかに流れる時間の長さは、同じ場所にいても違う。ぼくにとってはあっという間の時間でも、母親からすると気が遠くなるほど長い時間に感じられたに違いない。

 時間は伸びたり縮んだりするものだ。

 「何分やってくれるのですか?」って言う人の心理に長くやってもらったほうがよくなるんだろうとか、同じ料金なら長くやってもらったほうがお得だというものがあるのかもしれないが、もし時間というモノが限られているならば、というか人間には寿命というものがあるから、その人の時間は有限なのだ。その限りある時間、寿命を何時間もそこで費やしてよいものか?

 それだったら、身体を調整することはさっと済ませて、残った時間を代わりに誰かたいせつな人と過ごす時間にあてるとかしたほうがいい。

 身体を調整する時間を縮ませておいて、たいせつな人との時間をめいっぱい伸ばせばいい。それが、限られた寿命という時間を輝かせる方法のひとつだと思う。

 実際に長い時間やったからいいっていうことは、身体のほうから考えると、ほとんどない。早い時間で変化できる身体となかなか変化しようとしない、変化できない身体があるだけだ。だとしても、過剰なものは身体の感覚を狂わせていく。やってもらった感とか心理的な満足感は、長い時間やってもらったほうがあるのかもしれないが、身体はその満足感のために、またこわれていく。


 整体を受けに来られるお客さんの側の要望だからそれはそれで応えないといけないのかもしれないが、お客さんの側は、じぶんの身体のことをまるでわかっていない。じぶんの身体の声を聴くことすらできなくなってしまったのだ。

 じゃあ、誰が身体の側の声を届けるのだろうか。身体はあまりに聴いてくれないものだから、痛みを出したり、熱を出したり、咳をしたり、くしゃみをしたり、いろんな信号を送る。それでもその信号に蓋をして聴こえなくするもんだから、いよいよ倒れ込むような強制終了的な信号を出す。

 それでも「じぶんの身体だからいいだろう!」「じぶんの人生だから勝手だろう!」って言い張る人もいるかもしれないが、ぼくたちの身体はじぶんひとりのものではない。ぼくたちの人生もじぶんひとりのものではない。じぶんひとりで生きてきたわけではないし、いま現在もじぶんだけで生きているわけではない。たぶん、これから先もひとりでは生きていけない。


 整体というのは、その人の生き方や人生観だと思う。ただ身体に触れているその時間だけを、単純にその人と共有するだけではつまらない。



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