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あたりまえのことというけれど、誰のどういう事があたりまえというのだろうか?

 あたりまえのことというけれど、誰のどういう事があたりまえというのだろうか?

 自分の中のあたりまえと他の人のあたりまえは違うだろう。ぼくはあたりまえと思っていても、他の人からしたらそうではないことがあるだろう。もちろん反対のパターンだってあります。他の人があたりまえと思っていることが、ぼくには気が付いていないことだってあります。どこまでがあたりまえという範疇に入るのだろうか?これは難しい問題です。そして今回のあたりまえの使い方の場合では、あたりまえと思われていることができない、もしくはしないことはダメですよ、という文脈で使われているからです。


 先日むすめの懇談会に行った時の話のつづきです。

 担任の先生が学年の目標だったか、クラスの目標だったか、ちょっと忘れてしまったのですが、目標を話されました。何となくサラッと言われ、ほかの保護者の方もつっこむこともなかったので過ぎてしまいましたが、その目標が「あたりまえのことをあたりまえにする」という内容のものでした。

 ぼくは「えっ?」って思ったのですが、ほかの保護者さんたちの顔を見まわしても誰も引っ掛かっていなさそうだったのでスルーしました。


 そういえば、卒業式の時にも学校の先生から「あたりまえのことができるように」的な訓示をいただいていました。子どもたちの中にあるあたりまえというのはどういうものなのでしょうか?そして、そのあたりまえを生んだものは何なんでしょうか?

 あたりまえ、に各自の相違があったらどうなるのだろう。仮にA君はあたりまえだと思っていてもB君はそう思っていなかった。A君はB君を責めるかもしれない。もしくはA君はB君のことを軽蔑するかもしれない。そこに依存的な感情はないのだろうか。


 たとえば、困っている人に手を差し伸べることはあたりまえなのでしょうか?おそらく回答としてはあたりまえのことなのでしょう。しかし、手を差し伸べるとしてもいろいろなやり方があると思いますし、わかりやすく手を差し伸べることだけがいいことだとは思いません。わが子が転ぶことがわかっていても自転車の練習に付き合います。何度も何度も転びます。あきらめて、とぼとぼと家に帰る日もあります。号泣して「もういやや!」っていう顔をみながら家に帰るときもあります。でも、絶対に自転車に乗れるようになるとわかっているので、付き合います。かならず続けていれば乗れるようになるから。


 自転車に乗れるようになったら「泣いているときもくじけているときも、練習に付き合ってくれたからだ」と思ってくれなくてもいいです。こちらとしたら乗れるようになることが確信的にわかっているから、ときには励ましの言葉や行為が足りないこともあったかもしれない。「もういいから、離しといて」って言われて、荷台を持つことをやめて、また転んで、痛そうに足を擦って。そのときに慰めの言葉をかけたほうがよかったのかもしれないが、その言葉は余計だと思ったから何も言わなかった。だって乗れるようになるから。

 

 依存的な感情ではなく、確信的な理由であたりまえと言ってくれるならうれしい。あれこれ言われて規制されるのがあたりまえになってほしくない。



 本日もお読みいただき、ありがとうございます。



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