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流れているものはきっと美しい

  美というものについて考えている。

美なんて言うものは狐つきのようなものだ。空中をふわふわ歩いている夢に過ぎない。ただ、美しいものがあるだけだ。ものが見えないから、美だの美意識などと譫言を吐いてごまかす

青山次郎の素顔

 美しいものがきらいだという人がいるだろうか。美しいと思っているものやことに人それぞれ違いがあるのは当然だし、ことによるとその世界が理解できないこともあるかもしれない。時として軋轢を生むかもしれないし、来し方の違いにも影響は現れるものなのだろう。

 サッカー選手と一言で言ってもそこに美を感じさせる選手というのはいたものでして、そういったスター選手に憧れたものです。どういった形状の美なのかといいのも味わい深く、1990年代~2006年あたりがわたしが一番海外サッカーを観ていた時代で、中でも1990年代はファンタジスタと呼ばれる選手といわゆるファイター系の選手が入り交じり、どちらかというとファイター系の選手がトレンドでファンタジスタという美を彷彿させる選手が冷遇されていた時代でした。

 ファイター系の選手ばかりでもそれはそれで幾何学的な模様を描き、規則的な行為を繰り返す選手たちに機能美というものを感じてはいました。そうかと思うとほんの一瞬だけで機能美を崩壊させてしまうファンタジーの世界に酔いしれる。そういったある種、美の競演を楽しんでいた。

 こと自分に関しては美に対して無頓着に近く、美という世界を拡げようともしてきませんでした。おしゃれにも興味がなく、服装や髪形もとくにこだわりはなかった。というより、知らない世界を遠巻きに見ているだけでした。しかし、美について考えてみたり、美に対する意識を持とうと思ってみたりすることで世界は変わる。みえているものがどうなのか?もっとこうするのがいいな。それだけでも世界は違って見えるし、何よりも自分が自分を振り返ってあげられているという感覚が好きだなと思う。大切にしているんだなとも思う。

 美しいとかいうものよりも合理的かどうかということが対比的に、美を打ち消すときに出てくるけど、研ぎ澄まされた合理性は美しいとも思う。美を意識しないと合理性という言葉でいろんなことをごまかしてしまうのだと思う。

 琴浦町指導室には玄関を開けた右側に飾り棚があります。こちらをちょっとしたギャラリーのような空間にしたいと思っている。少しずつ作りこんではいるのだけど、なるべく美を意識して作りたい。そう思うだけでギャラリーのことを考えることがめちゃくちゃうれしくなる。かわいい香炉がますますかわいくみえてくる。美って多分そういうことなんだろうと思う。


 疎遠になっていた人との縁が再びつながりそう。これまでも何度かお互いにアポイントを取っていたのですが、なかなかタイミング合わず。それがようなくつながりました。ほんの少しの時間。普段だったら「それではまたの機会に」となっていたのが、このときばかりは少々強引にでも機会を得る。時間としては1時間足らず。おもしろいもので次の機会はすぐに合う。

 流れない。循環しないということはこういうことなのだろう。流れが止まると澱む。穢れなどと言うものがあるとしたら、流れない、留まることが原因なのだろう。流れない氣のことを邪気という。流れている氣のことを生氣という。氣というものでさえ流れなければいけないのだ。氣というものが人間のエネルギーになり、活力になり、人間を動かしているとしたら氣の問題ではなく停滞の問題、流れの問題。人間は安心して、安定して、安住して留まろうとするけれど、安心、安定、安住しながらも流れ続けないといけない。目に見えている現象上で流れたり動く必要はなくて、目に見えない部分で流れていることが大事。

 愛光流。ここにも流れるということが説かれている。


 遊びっていうのも本気でやらないとダメだ。適当に遊んでいるような暇はない。
 
 何が遊びで何が遊びでないのか、境界線がよくわからない世の中になってきていて、いわゆる仕事よりも他の人から遊んでいるようにしか見えない人の方が収入がよかったりする。
 いつからか何かしらの枠組みが生まれて、それから外れているものが遊びと認識されているようだ。仕事だったり、勉強だったりが優先されて遊ぶことは後回しにされる。後回し、枠から外れたものばかりしている人は遊び人と呼ばれたりする。
 遊び人だってごはんも食べなきゃいけないし、家賃も払わないといけない。だからそれなりに何とかしないといけない。
 何とかなっているからそのスタイルを継続できるのだろうけど、誰かの枠組みから外れていると遊んでいると言われる。本人は遊んでいるつもりはない。

 世の中には規則やルールというものがある。法律がそういうものであって、これは守らないと罰せられる。これとは別に通念とか常識というものがある。これはある社会で生きていくには大切なルールだ。これは守らないと罰せられるということはないものの、ある意味で罰より厳しい状況を生む。

 規則にせよ、通念にせよ、所によって変化する。国が変われば法律は変わる。税率なんかすぐに変わる。通念も変わる。わたしたち日本人は主にお箸でご飯を食べるけど、インドの人は右手でご飯を食べる。単に場所が変わるだけで規則も通念も変わる。規則や通念が存在する場ではそのように振る舞うのがいいと思うし、その方が楽だったりもする。

 枠組みから外れるものが遊びだと考えた場合、枠組みなんて場所とか、ひどいときは流行でも変わるものだから、枠組みを知って、外れる、拡げるということが大事だ。そう考えると本気で遊ばないとダメだ。

 そういえば昔、ドラゴンクエストの職業であそびにんというのがいた。戦闘中に踊ったりして全く役に立たなかったけど、ある時を境に誰にもない能力を身につけて主戦力になる。そんなもんだ。適当にやっている暇はない。

あるカフェで。タンザニアのコーヒーと文庫

 美も目に見えないものです。美しいものがそこにあるからわたしたちは美が見えるものだとどこかで勘違いをしてしまいます。でも実際に美しいものと醜悪なものはあって、それがそうだと思ってしまう。そのものが美しいとか不細工ということはあるのかもしれないけれど、それだけではないような気がしている。

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