執着も愛着も同じこと
整体には中毒に対する操法というものがあります。
この場合の中毒というのは、もちろん○○中毒といわれているものも含みますし、しばらく続く慢性的な痛みもそうです。
「もう何年も腰痛を持っているんだ!」「おれの腰痛を治したら大したもんだ!」「レントゲンで調べてもどうもないのに、どこの医者でもおれの腰痛は治せなかった!」とか意味が分からないことで自慢をしている人もいますが、中毒です。まちがいありません。
腰痛中毒とでも言いましょうか、それとも慢性疼痛中毒とでも言いましょうか。痛いのがないとダメな中毒とでも言いましょうか。
こういう人は案外痛みというものに囚われていて、執着している。そもそも痛みなどと言うものはちゃんとした神経が通っているから痛むのであって、麻痺してしまったら痛みなんか感じません。
ぼくも以前、部分麻酔ですがしてもらった経験がありますが、痛いなんて思いませんでしたよ。
しかし、麻酔が切れてくると痛みだす。
痛いというのはそれはそれでありがたいものだな、と思いつつ、その痛みから早く解放されたいと本気で思ったものでした。
しかし、腰が痛いのを自慢しているような人は腰が痛くないと困る自分がいるのです。ほんとうにいたいのを回避したいのであれば、麻痺させる注射だのおクスリだのを使ったらいいのに。
腰がマヒするなんて恐ろしいことは考えるだけでもイヤですけれどね、ぼくだったら。
つまり、その人の中には腰が痛い自分というのに価値がある。それの中毒になっているのです。
いつの頃からなのかそういったことが定着してしまった。そして、執着するようになった。
執着というのはなんとなく印象のよくない言葉ですね。なにかに執着してしまって、そのこと以外のことは考えられなくなってしまう。少し病的な感じもしますが、ちょうどこの時期にはなりやすいことでもあります。
執着というとなんとなくイヤな感じはしますが、同じような言葉で愛着というものがあります。
愛着というとなんとなく感じがいいような気がしません?自分が開発に関わったために愛着のある商品とか、子どものころからずっと大事にしている愛着あるぬいぐるみとか。
これを執念とか執着といわれると、ちょっと違うような気もしますが、ほんとうはどちらも同じことですね。
執着を愛着と言い換えてなんとなくいい風にとらえていますけれども、結局は同じこと。
愛着も執着もその物事に囚われていることには変わりはないのです。
四柱推命を観て行くときに旺・相・休・囚・死というものがあるんですけれど、まさに囚とは囚われのことです。
ただ、この囚には気になるという意味合いもありますので、まさにその通りだなと思います。
腰痛にせよ、商品にせよ、ぬいぐるみにせよ、気になって気になって仕方がないんです。それに囚われている。
おもしろいのが、男性から観ると囚は女性であることを表すのですが、女性から観るとお金とか物欲とかになるから不思議。
女性は男性ほど異性に対して執着や囚われがないものなのですね。四柱推命はそもそも古代中国から発祥しているものなのですが、そんな昔から男女の関係や囚われの違いを言い当てていたとは恐れ入ります。
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