エンジニアリングがのせるもの。何がのっかるか。逆にいえば人間から離れていくものたち。なにをしたらいい?

 核爆弾がのっかてるものは戦闘機や爆撃機、特に原子力潜水艦だけど、戦闘機に乗ってる人、原潜の艦長やってる人と、ミサイルや魚雷、核弾頭、の組み合わせ、では人の位置が最終的なところにある。この最終的な位置がエンジニアリングで置き換えられるかもしれない。
 核爆弾は破壊力を集中させたものだとすると、パワーを集中させるテクノロジーがエンジニアリングに乗っかることが出来るものはほかにもあるかもしれない。例えば、金融のパワーなどを集中させる特別な計算機であるとか、がある。人間たちがつくりだすシステムというものは集団の想像力で始まることが出来る。人間たちが集団になると、その集団独自の動きができるようになって、集団を構成する主体であった人間たちはそれぞれ機能になって置き換え可能になる。人がその能力を発揮できる時間は短いが、機能になると、それはどんどん長続きしていく。エンジニアリングというのは、人間の集団の機能であるけれど、まだかなり特定の人間たちに依存していて、まだ自由に取り換え可能な人たちを創りだすには至ってはいない。
 教育のシステムはまだテクノロジーというほどには分析されてはいないようだ。人の自発性が人間の集団をつくりその想像力をそれを可能にしている。この自発性が可能にしてきたことを考えたり想像したりしなければならないのかもしれない。それは実際どういうものであるか。
 キューバ危機の時とかでロシアの潜水艦の艦長が核ミサイルの発射ボタンを自分の判断で押さなかったことが大きいという話もある。たぶんフィクションだろうけれど。人間が排除されていくときに一番問題になるのは、この「フィクション」で語られている「人間の判断」ということだろう。人間の判断、個人的なそれ、は半分はフィクションの想像力から来るのかもしれない。単なる命令系統に過ぎないと思われていることは、暗に、「個人的な判断」を介している、表には出てくることはほとんどないが、さまざまなフィードバックループがあることで成り立っている。これは、損得勘定からはかけ離れている。それゆえ、曖昧さがあるので、システムに埋め込むことが出来ない。しかし「個人的な判断」をしだいに囲い込んでいくと事実上それなしに機能できていくようになっていく。フィクションの想像力が排除できるのかもしれないのだ。それでもそれは残るだろう。
 『メッセージ』という映画のことなど考える。
 問題は「個人的な判断」と、そうでない「判断」があってその関係が曖昧になって見えなくなっていくことだろう。交通というのか流通というのかものとことの流通がエンジニアリング主導になっていく。そうしてだれでも「個人的な判断」が「判断」の選択肢に置き換えられていくことに違和感を持たなくなる。これは、教育のシステムが、時間的な継承関係から空間的な普遍性に置き換えられていくことになるので、インターネットみたいなシステムが前提になってしまうのでしかたのないこととして受け入れられるのかもしれない。それゆえ、自分にということついて考えていかなくてはならない。
 自分を直接考えるのはいろいろと面倒なことなので違う方向で行くこともできる。例えば、自分にとっての「自分の手」のようなものが、どこから来たのか、いつから自分になったのかは意外とわからないものである。認知科学の啓蒙書にあるような「ラバーハンド錯覚」みたいなものでいつもそういうのは揺れ動いているのかもしれない。人間と人間の関係の危うさ、切り離されることがもたらすことの危うさとか枚挙にいとまがない。
 個人的なことというのは空間的な普遍性とはまるっきり違ったもので誰にでも共通なシンプルな空間みたいなところには収まらないのだろう。ところが、個人的なものをどんどん捨象しながらエンジニアリングは進展していく。そして残ったものたちがやがて一つになるのを予想しながら物事は進展していく。これを残せあれを残すな、というのが政治的主張になり保守主義もリベラリズムも意味不明なものに変わっていく。まぁそれはどうでもいいことかもしれない。現在のところ生物学的には生命はみな身体を持っている。「個人的な判断」というようなものが外界の❓介入してくるものにぶつかるときに「判断」が生じる。あるいは、そのようなときに「個人的な判断」と「判断」が対をなすように生成してくる。ラバーハンド錯覚のようなことがより高度に設計されて「自分」がある特定な性質をもつ誰でもが知っているような他人、あるキャラクターに錯覚されるような体験ができるようになるのかもしれない。正しい「判断」ができるよなその状況に適切な「キャラクター」が選択できるようになるのかもしれない。それはラバーハンド錯覚のようなことなので勝手にその錯覚の対象であるラバーハンドが動くのではなくてあくまで自分で動くのであるからそれはやはり自分の「個人的な判断」と言えるのかもしれない。そうであるのならば、「やがて一つになる」ことから誰でもが取り込まれないで済むようになれる出口と入口が確保できることが期待できるかもしれない。それはいったいどうゆことなのかというと、おそらくそれは「フィクションの想像力」で、それは自分で自分がする演技なのだろう。おかしな話に聞こえるかもしれないが、ひとは、「演技」によって「個人的な判断」を得ることが出来るのかもしれない。ある意味では演じることによって人間の世界のすべてが得られているのかもしれない。むろんひとは自分で自分を主体的に決めているのだと思うのかもしれないが、それを自覚的なある演技を演じていると思うことで少しはましな考えが得られるとしたらそれは案外面白いことなのかもしれない。

 演技することで離れていくものたちを呼び戻すこともできるかもしれない。戻っておいでと演じてみる。そうしたら何かが起きるかも❓❓❓誰かがそれを演じている想像の舞台を想像力で想像して集団を想像して演じてみよう。君は無人の戦略爆撃機に乗っている、私は無人の原子力潜水艦にいる。あるいは、無人の金融システムのなかにいる、でもいい。こどもを見ていればわかるように演じることは重要なのだ。なにっ、こどもはいない?減ってるいなくなる?ならばその前に子供を演じてみればいい。こどもの演技をしてみれば子供を演じることは出来るからやってみるといい。戻っておいでこどもたち。

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