昭和のこどもは未来図というイラストを漫画雑誌でみたものだった。いまの想像する未来はどんなものか。昔を思い出して夏休みの作文を書いてみました。

 1.0。
 ちょっと毛色の変わった思想家文芸評論家であるベンヤミンの新しく出た解説書によると、人間の道具使用は人間の起源そのものであるので技術は自然を胚胎させて新しいものを生み出していくから技術的に成立する世界は人間にとっての「第二の自然」となると考える。この「第二の自然」の中で人間は生きるようになる。狩猟採集民たちの生きる自然と違って、この「第二の自然」はそこから拡大して発展していく社会が生まれてやがて巨大なスケールの文明が立ちあがる。そうすると技術によって「第二の自然」を合理的に対象化していくのかの問題にもなっていく。言い換えるとこれは自然の脱魔術化であり世俗化でもある。技術による発展は領域の拡張を可能にして、進歩という考え方をつくりだす。この「第二の自然」は文明化される新たに胚胎された対象化された人間を創りだしてそれが近代的な個人になっていく。自由な存在であると同時に操作の対象としてまた合理性や効率性を内面化した鉄の檻にとらわれた人間になる。問題はそこで何が起こるのかである。だいたいこんな感じ。

 戦争は狩猟採集民たちの昔から人間にとってとても意味のあることだった。先住民たちの観察からたぶんそう思える。それはまだ自然のプロセスだった。これが「第二の自然」へ移行していく。技術で闘う戦争は「第二の自然」である人間を対象にする破壊活動がどうしても必要だ。しかし一方ではその技術は人間にとって魅力的なものでないと人々を動員できない。ところがそんな心配は無用で技術そのものが無条件に人間を惹き付ける魅力があるのだった。それはひとを力づけ技術によって新たな世界に飛躍することができるポテンシャルは想像力を刺激してそうして表現される人間と機械のイメージは人間を魅了する。要するに複雑で仕掛けと思慮に満ちている美しい機械である。戦争は人間の劇的な美しさを発揮させるので新しい詩学と美学を呼び出す。単なる人間同士の競争であることを超えて人間の生を破壊してしまうという技術的特異点に向っていく。そこに戦争の美学があらわれる。しかしこの美学は戦争に内在するのではなくて戦争ですらこの美学の一部になってしまう。ただの技術に対する崇拝、機械に対するフェティシズムが戦争を内在化することに気づかないままに戦争の美的魅力にとらわれてしまう。これがファシズムであるとベンヤミンはとらえてこれに対して彼はコミュニズムを持ち出す。これが彼の時代の物語であった。
 
2.0。
 ファシズムもコミュニズムも時代のかなたに去ってしまった現在でもやはり同じことが問題であり続ける。技術は進歩をやめないのでもともと人間の社会を成立させるもとにある要因であるのが技術なので人間の社会もやはりかわる。技術はコントロールよりも先に走っていくので人間の社会もどうなるのか事前にはわからない。このことはベンヤミンの見たことと変わらない。彼はこれを美学的な場所で考えた。いま現在の美学的な場所はエンターテインメント産業の中にある。いま現在は新しいテクノロジーの広く深く遠くへとむかう革新のプロセスに入っているのでこれはベンヤミンのテーマであるといえなくもない。それは今やただの過去のものではなくまた回帰してきている。
 
 忘れられたと思われていたアイヒマンのことが最近また帰ってきたような雰囲気があると思ったらこんんどはオッペンハイマーの映画が公開されるいう。少し前の宮崎駿のアニメ映画もよくわからなかったけれどこのテーマだったかも知れない。タモリの言う「新しい戦前」もエンターテイナーとしての彼の自分自身のいるところについての直感かも知れない。技術の美学が刷新してまた人びとがそれに惹きつけられている。美学の中心がエンターテインメント産業にあるので技術の内在的な批判は映画作家たちによってなされる傾向がある。政治思想はこういう事態にはどういうわけか対応できていないようなので現在の技術を進行中の科学や工学を内在的に批判することは無理に思える。そういうことなのか今の思想状況みたいなのとは関係ないのかエンターテインメントの集団的な想像力は新たに物語を呼び出すことで歴史的な経験を新たに可視化してエンターテインメントの作品としてつくることで内在的批判を感覚的に感情的に体験させることを考える。

3.0。
 ベンヤミンのテーマに遊戯性というものがある。彼は新しい技術は目的に縛られない遊戯や実験の可能性に開かれている性質を持つと主張する。これは世界に広がって受け入れられているアニメーションのことみたいに聞こえる。人間は自然が偶然に胚胎して産んだ存在なので本来は何か特定の目的のために生きているのではなかった。世界は偶然に満ちていて人間たちはその偶然と触れ合いじゃれ合って遊び何かゲームのようなものを考え出してプレイする。結果として生き延びて生殖ができれば人間は続いていくだろう。


4.0。
 正しいのか誤っているのか以前の問題としてエンターテインメント産業のつくる商品が受け入れられなければつまり商品としてヒットしなければ意味がないことにはなるのだけれどそれほど単純なことでもない。技術の内在的批判は全世界的な全人類的な問題であるのでフラットに世界に広がっていくと期待できるものではない。文化的な伝統のありようであるとか価値観の違いであるとかが表現の仕方にたいして齟齬を起こすのはあたり前でそこで何が起きてしまうかも考えていかねば効果的ではない。エンターテインメントの歴史は勝者の歴史ではない。敗者の存在から始まる物語はおわらない。
 物語は直線的に進むヒーローの物語であることに飽きてしまう。敗者もまた生き延びて知らない物語の一部に入り込んでいくだろう。
5.0。
 現在の日本ではディズニーやハリウッドのテーマパークが絶対に行って体験しなければならない場所になっている。子供なら必ずいかなければならないというのは何やら通過儀礼とように見えなくもない。子供はいったいそこでどんな世界へと入るのだろうか。これはただのリクリエーションとか娯楽であるというのとは根本的に違うのかもしれない。やがて成人して社会に参入して統治権力や企業活動に巻き込まれておとなの生活をするのだがそこはほんとにリアルな場所であるのだろうか人生の意味をつくれるほどの場所なのかどうかホントのところはよく分かっていないと思っているだろう。この生産活動は案外早くAIにとってかわられてよっぽどの資産家や超エリート層の家系ではない限りその世界からは出ていくことになるというのはホントかもしれない。ただどこへいくのかはわからない。失業保険で生活して新たなスキルを身につけるために学習することをするというのが今の方法であるけれどその方法が技術的に変化して新しいシステムやアプリケーションの利用で一気にアップデートしてこれらはいずれ情報空間のなかへシームレスにつながってゲームの世界に包摂されて区別がつかなくなるのかもしれない。そこで技術と人間が遊戯で結ばれるわけだ。抑圧や排除から人々は自由になりそこで遊ぶというようなところだろう。そこで誰もが自由に自分の可能性や限界のなかでそれぞれの生き方を学ぶことができるだろう。これは技術的には可能な世界というかそっちの方向へ進んでいくはずだ。それは超エリートのエンジニアやプランナーと投資家たちが実現させる世界なわけで一部のごく少数の超すごい系のインナーサークルと多様性に満ちた次々に新しいものが生まれてくるゲームの世界で自分の意志でプレイする人々たちの世界になるだろう。新たなスキルを身につけるというようなことが新しい冒険のゲームになるみたいなことでそこで人は成長してかれらこそが新たな社会を創ることになる。マルクス風の無階級社会とはまるで全然違っているがひょっとしてマルクス自身はおそらく実現するとこんな感じかもななんて思ってたかもしれない。

6.0。
 地球温暖化問題はどうなんだ。経済活動に規制をかけることに納得することは難しい。はるかな未来と現在の現実がある。大量絶滅のシナリオがあり未来を救済しなければならないという。抑圧された人たちや名もなき人たちのことばを想像して耳を傾けなければならない。「抑圧される未来」は現在からみると些細なことよくよく気を付けていなければ見過ごされてしまうことから始まり大きくなっていくカタストロフである。
 地球温暖化問題が特異なのは経済活動に規制をかけることにあるのではなくてどうしても人類全体というような途方もないものを視野に入れなくてはうまく問題設定ができないということにある。技術の進歩で何とかなるでしょうではどうも間に合わないらしい。幸福は技術的に強化できるのか、ロバストネス、フラジャイル。祝祭。儀式のない祝祭。目的論的な方向性といったものはなく従ってハッピーエンドなすべてが丸く収まる終わりみたいなことはない。

7,0。
 ところが前提を変えればまた違う景色も見えてくる。「抑圧される未来」から抑圧の原因を調べて一つずつ減らしていけばいい。個人の意識やテクノロジーのアップデート、イノベーションや都市計画、持続可能な未来へのロードマップをいともやすやすと記述してしまうこともできるし、実際にしている。なんでなんだろうと考えるとここには新しい人間観のようなものがあるような気がする。変化するのは技術的な環境で新たなテクノロジーにネイティブな子供たちが育ってきているから彼らを育てるテクノロジーが彼らの考えを決めているとしてそれが何なのか想像してみる。大きな変化は要するにデジタル化ということだからコンピューターを考えるのがよいかもしれない。
 チューリングは数学の問題を解く人間という意味での限定された人間のモデルとしての抽象的なそれでいてなぜか具体的なイメージを持っているチューリング・マシンを出してきた。それは具体的なプロセスを曖昧さなく記述されたプログラムであるならばなんでも実行するマシンである。それは問題を解く人間という概念を最小化したものだった。正確に記述されたことならなんでももちろん物理法則とか現実的な制約の中でならなんでも実行できる何というのかある種の万能性を備えた存在である。ほかの動物ではちょっとこういうのは考えにくい。この「万能性」は直感的には「自然」と対立する恐ろしさを内在させていることを感じさせるのではあるけれど。これが「人間」であるわけだ。というわけで、もしこれを発展させたものとして一般的な人間に当てはめてもよいと考えていいのならば「インストールされたプログラムを変えるだけ」で何か良いことが起こると新しい世代には自明に感じられるのかもしれない。そうならばいずれかあるいはすぐにでもアップデートされたリバイアサンがあらわれるだろう。このリバイアサンのもとでならなんだか現実味にとぼしいようなSDGsは実現できるのかもしれないと思ってしまう人間がいるのはそう不思議なことではないのかもしれない。
 

8,0。
 ベンヤミンならば、しかし血と肉を備えたチューリング・マシンが人間であるのなら死者たちは永遠に語る言葉もちいさなきこえないこえでかたることもないだろう。ここには救済ということ自体がない。不幸な死者たちの魂は救済されるのだろうか。こうしたことに気がつかない「想像力の欠如」は災いをまたもたらすのだろうかと思うのかもしれない。
 人間がただのチューリング・マシンでないなら意識を変えて必要なものはすべてアップデートすればいいだけとはいかない抵抗する人間たちの問題がある。ベンヤミンは救済がない人間の受難の歴史というものが重要であると考える。死屍累々たる廃墟の上にしか築かれることのないのが都市や国家であると歴史的な想像力で幻視するのが彼だからである。
 それはさておきアップデートされたリバイアサンとはいったい何だろうか。国民国家というような垂直で領域的なものではなさそうだ。救済の契機というようなものはそこにあるのだろうか。

9,0。
 オッペンハイマーの映画が公開されるというので彼について書かれた本を少し眺めてみた。いろいろ興味深いことが書かれてあるがこれは映画を見た後にしよう。

10,0。
 最近よく耳にするのはそうとうすごいことになりそうな基礎的な理論科学や脳科学や生物学や情報理論や生体工学などなどの急速な進歩の話でひょっとして案外早く身体のエンパワーメントなどがやれそうでセンシング技術が精緻になって人間そのものを深く分析できるようになり生命そのもののプロセスに介入できるようになるとか。そうならばこうして人間自体が「第三の自然」になる日も近いということらしい。
 技術によって、自然はいくつかのレイヤーになってあらわれる。プライマリーな自然、「第二の自然」、「第三の自然」、………。これらに移行するたびに人間は新しい問題に直面する。それが宗教や物語や思想になって表現されてきた。この傾向は一般的には聖性からの撤退で世俗化と合理的な思考による脱魔術化であった。「第三の自然」に移行するときにはいったい何が問題となるのだろうか。わかりやすいこととしては、すべてのレイヤーと人間の関係が地球環境問題として可視化されることがある。これは大文字の問題である。でもこれはこれそれはそれ。

11,0。
 見方や考え方をまったく変えるとそれとはまったく違うがそれが問題なのかどうかはよくわからないが別の景色が見える。若い人たちはだれでも小さいキャラクターグッズをバッグにつけていたりする。このおびただしいほどに多種多様なキャラクターたちが世界のどこにでもいる。実際的な意味があるとは思えないようなごく小さなものたちの意味する大切さとは何なのか。「神は細部に宿る」というならこういうのがそういうことなのだと考えて差し支えない。共同体の存在なしに技術が支える生活があってひとりでも生きていかれる社会に近づいているといえなくもない。生活の細部が記号化され意味を考えなくとも自動的に進行するシステムに乗っていれば過不足みたいなことはないとするとこのキャラクターたちの作り出す架空の世界は意味の回帰なのかもしれない。ファッションの中心にはTシャツに描かれるアイコンのようなものが重要でそれがデザインの発想の源泉であるのかもしれない。人びとはキャラクター的なものを身にまといどこか祝祭的な独自のローカルな言語感覚で話したりする。つまり彼らは意味や感覚、気分や感情が自然に伝わる大きくはない集団的な世界を求めているのかもしれない。これが未来のしっぽだろうか?
 とりあえず今日はここまで。



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