自分を世界からまもること。イメージみたいなものに囲まれていること。イメージ、妄想、世界観、みたいなものが必要なのか、それはまるでゲームの身体?

 芸術表現する時には新しいタイプのものをつくりたいと思うことがある。表現された世界には何か足りないか、あるいは余計なものがあるのか。リアルなもの真なるものがあって、それを表現したいのなら、世界を前に自分自身を向けて立てることができるなら世界は何か応答するだろう。根源的なコミュニケーションみたいなことを、或る種の直接さが演じられればそれは素晴らしいことだ。世界が見つめる。それは人気のあるゲームで、観客は大喜びして感動して涙を流して嬉しがるだろう。誰か特定のものに見せるものではなく不特定多数の匿名性のなかに向けられたそれは、現在それはある程度は成功しているのかもしれない。それはテクノロジーによって大規模なイメージを生成することによって多くの人間を取り囲むことができるようになったからかもしれない。表現が生き生きしたイメージになり大きな劇的スペースが立ち上がれば、等身大の演技者たちのパフォーマンスが大きなスクリーンで映し出されそれは場所の制限から場所の制限が持つ力に発火されて躍動することが出来る。あるいは自然が宇宙が偏在する誰かのどこかの誰かの自分の部屋のスケールに降りてきて一瞬だけそれはリアルな祝祭的な世界になる。それで人びとはそわそわしだしたりしてうれしくなってしまう。
 それは完全な世界である。イメージのうちにすべてが溶け込んでいく瞬間を直接に感じさせる体験をつくるのだ。
 もちろんその主役はあくまで個人の意識である。身体ではない。もちろん肉体の興奮は素晴らしいものだけれど、身体を持っていかれたらどこに帰っていいかわからなくなっちゃうからどこかそれは冷めた意識のうちにある。
 演じられて与えられるイメージは、それによって自分を活性化してよそよそしい世界から自分を護ってもくれているのである。ひとりでいることが同時に護られているということもあるのだ。この奇妙なありようというものはびっくりするほど新しいことでなんだかよくわからないのである。こういうのが普通なことになり、独りでいる時も集団でいる時もこういう感じでいるというのはたぶん楽なんだろう。護られているというようなこと。それで多様性であることが可能になるのかもしれない。
 
 誰でも世界を前に身震いする。イメージは間接性だが、世界は、真なる世界は、直接的な力でやって来る。それをイメージに変換できればそれから離れて直接性とともにあるような気分になる。産業社会のテクノロジーが動力革命であったのに対して今のテクノロジーはこういうことが目まぐるしく展開する仕掛けの革命で、熱い情熱の社会を大規模に変えてしまう労働に代わって?意識は身をゆだねることができる。それはある意味では冷静で冷めた意識でもある。大きな一時的な集団が生じる時にそれに個人的に参加することができるとはそういうことだ。
 参加するひとならその意識とは妄想の別名でもあることも知っている。テクノロジーはいつでもその妄想にアクセスできる手段を与えてくれるので危うい感じはあるけれど妄想を内に秘めつつ生活することができるのである。  
 
 直接的なものの代わりに妄想が起ちあがってそこで演技の需要者はシンクロしてともに演じる。
 生活と人間関係のありようが、親密に触れられていた関係性の直接性は何か別のものに置き換えられたのか、それなしでもまわるので、それが失われたといえるのかもしれない。喪失することが身体をその愛着する対象とともに不安定にしている。その対象に向かっていた欲求がそれから引き離されていくとそれの行き先は自分自身に向かうしかなくなるかもしれない。
 それはどこか危ういものである。ある感情がやってくるときにはそれを抑えつけてある考えに対しては敏感に反応して否認することを繰り返して安定を保たなければならない。それは意識的な活動なので自意識は疲れていく。
 その時に妄想は檻に一匹で閉じ込められたサルのようにストレスを感じるならば意識によって外にそれを向けることができないので発散するために檻の中で暴れて自傷行為みたいなことに走ったりすることもあるだろう。
 
 意識はなにものかについての意識であるが妄想はそれに伴う感情と同時にそういう志向対象を曖昧にしか持たないがそれがテクノロジーによって粉飾されていればそれに向かうことができて、それ故に妄想は幸せな気分になれるのであった。この何とも曖昧な幸せということが生活にとって重要なのであるのだ。

 たとえば、最近の住宅メーカーのコマーシャルではいったい何を言いたいのかよくわからない。コマーシャルのなかのこの家が何のためにあるのか見当もつかない。その家は何かから自分を護ってくれていて安心なホームを保障するというようには見えない。むしろその住宅とはイメージでしかないある世界観で造られているように見える。
 それはイメージによって、世界観によって、ひとが護られているということ、生活全般が世界観の上にのっているということを図らずとも示しているということになるのかもしれない。
 
 世界を見るとはイメージを通してみるということなのでフィルタリングみたいなものだ。いやそれ以上のものだ。イメージにあうものだけを見るという以上にそのイメージがある世界を見ている。何処かに他者たちの存在が感じられてぶつかりはじける。
 リアルであるのは、ものはものであり、世界はものとかの集まりでありイメージなんかではない。しかしランダムであるはずもなくなにがしかの内在的な秩序がある。それゆえその秩序に沿って行けばどこかに出られると思うわけだ。それはひろく言って妄想の類かも知れないがまったくの出鱈目というのでもない。それは世界と自我ということではなくてイメージの所有というのでもない。イメージの所有ということなら、人間はわざわざ月にまで行って地球を眺めることしかできないのか。もちろん地球の自意識にふれたことは無駄なことではなかった。その地球、つまり世界は私たちの知を超えた道理なんかまったくどうでもいいような我々にまったく無関心なものに満ち満ちている。だから世界を認識するということにははどこか的外れで間違っているところがあるのだ。むしろそういうことを前提にしなければ、あらかじめ期待できることに限定をつけておくことをしておかなければ、何事も成立しないのではなかったのか。
 月を眺めるのと違って地球を眺めるのは危険なことでただでは済まないことなのであった。つまり認識するというのはそういうことなのだった。テクノロジーによって月に到達できた。そこから地球を眺めることができた。しかしテクノロジーによって世界に到達することができたわけではない。むしろ地球の自意識ーそんなものがあるとしてーと対決していかなくてはならないということだった。対決すること、世界から身を護ることは予測可能な結果を回避するために計画して始動できるようなことではない。もちろん否定はしないが、個人にもどって考えてみれば、自我は意識的にしろ無意識的にしろ目的に沿って防衛手段を講じている万能な存在とはみなせない。
 そうではなく、個人という存在は、当人の知る由もない理由で自覚なく生起するプロセスの意図せざる主体として現れている存在だったと理解したほうがいい。事後的に自分のとった行動をもっともらしい理屈をつけて理解し根拠づけても、そこにある真の原因は自分の理性の世界を遥かに超えたところにあることは否定できないだろう。
 そういうことなので私たちはただの動物と大して変わらない。どうだろう、動物に親近感がわいてきただろうか。
 このとき「自我」とは保護された動物が入れられるケージのような働きをしているのだろうか。この「自我」のイメージが変容して姿を変えてそれ自身として存在すると住宅メーカーの提供する家や部屋のイメージになる。その「自我」はそれ自身で存在していて他の「自我」との相互作用は考えられていない。もちろんその「自我」はそれを否定してはいないにしても「自我」のなかにいるなにものかにとっては護られていることが最優先ではあるだろう。その時世界はどのようにして現れるのだろうか。ボールとプレーヤーが等価であるようなコンピュータ・ゲームのような幻想的な遊戯のようにだろうか。気がつけばいつでもすでに参加している何かのドラマの主人公にとっての世界のようにして現れるのだろうか。ゲームそれ自身は真摯なものであるから充実感はある。それは内在的に発生する言葉を持っていない。ノイズとしてカットされているのかそもそもこういうゲームの性格として与えられていないのかどちらかであるだろう。言葉はだから説明するものとして現れる。そうして世界観が与えられていく。住宅メーカーの素敵なおうちみたいな。それは、客観性から科学性から創られていて科学技術的合理性を絵に描いたように見せている。それがいかに魅力的かを言葉が説明するのであるのだった。それが現在の表現のあり方で新製品のスマートフォンの売りはいかに映像を思ったように再現できる技術があるのかである。目的によって映像が粉飾できる。映像によって説明するように変わっていくのだろうか。それはテクノロジーのもつもともとの性質だからそれでいいのではある。ただ言葉と違って映像はほぼ無限にある。それらがいつでも検索されるようになるとそれは安心安全なところの向こう側に行けてしまう。映像はイメージになると所有できるものとなる。ところが所有されると同時に全ては何の脈絡もないものに変り果てる。すべては謎に包まれ始める。まるで夢の世界に迷い込んだようだ。言葉と違い映像にはその裏に意味が張り付いているようなことはない。動画になればただ前後関係があるだけだ。ただそれだけをその繰り返しだけを見ているうちに次第にその前後関係は変化していき、何しろ映像は無限にありそのそれぞれが意味に限定されていないのでいくらでも差し替えられることが起こるのでいつしか前後関係は別のものになり得る。 
 
 こうしてどこかほかのところへ向かうことができるようになるのかもしれない。むかしで言う三面記事的な現実の事件がパワハラやセクハラやストーカー事件や不適切な行為が発覚した事件やらがいろいろあってこのような無数の出来事を知ることによって漸く日本に起こりつつあることの意味が少しだけわかり始める。こういうことから護られていたい。できればまったく無関係でありたいというのがイメージになり世界観になることの表現が住宅メーカーのコマーシャルなのであった。
 日本に起こりつつあることの意味が重要なのはわかるが申し訳ないが興味がないという自意識さえすでにない。
 それは遠くに去っていってしまった。もちろんそれは喪失ということなのだけれどそれはかなり違った変形した形で帰ってきて、アニメーションでは子供も大人そういうことを体験?しているからそれはそれでいいのだという感じもしている。
 宮崎駿があいかわらずつくることをやめない最近のアニメーションみたいで観客はみな意味がわからなくてもいいようだ。謎解きそのものにはあまり関心がないようだ。そういう世界観がよく消費されているということなのだろう。謎解きされてもなくしたものが戻ってくることもないからだろうね。謎というのはこの場合は私生活ということから発生するものだからあまり気にすることもないのかもしれない。プライバシーに入り込むことことにしてもその敷居があまりに高く設定される必要もないのかもしれない。どうなるのかな。ここで一つわかったことは住宅メーカーのコマーシャルではわけのわからない不必要な設定があっても気にしていないということだ。世界の脅威はまるで後退しているかのように、それと遊んでいるかのような、住宅地にクマが出てビックリしているニュース動画とか事故の動画とかそういう気分に支配されている。
 現代の芸術であるコマーシャルでは現実そのものからの離脱が求められてそれは空想ですら許容する。現実に向かう通路はコマーシャルのような大域的なものでは表現されない。ではその通路とはどういうものか。
 
 先住民たちに映画を見せてその反応を観察した記録によると彼らはその映画のストーリーには関心を示さずに画面に出てくる動物に、画面を横切る犬だとか鳥だとかに関心を示すのだそうだ。
 おそらくそういうものが通路なのだ。先住民たちも私たち文明人たちも遺伝的にはまったく変わらないからむしろこれからは先住民たちのように体で覚えた技術によって生きることを考えていくようにするのかもしれない。そうすればおのずと現実に向かう通路は見つかるのだろう。そのためにいまどきの人はあらゆる移動体のなかにいる時間をゲームに費やしているのだ。まったく無意味であるような体で覚える技術が襲ってくる世界に対抗することになるのだろうか。目まぐるしく展開するイメージが世界であるのだという直感がある。こういう時には、あのような住宅メーカーのコマーシャルで描かれる世界は、ある意味では統合を解き放たれた自由が主要になる新しい世界の舞台なのかもしれない。統治権力が主権が後退した後の世界がどういうものであるのかを無意識的になぞっているのだろうか。世界に参加し世界から自分をまもることがどういうイメージなのかということだ。世界観をつくるということは後退ではあるけれどそういうことかもしれない。動物のように生きるということが複雑な文化的ないとなみのなかに自分を織り込んでいくということなのだろう。動物が環境に自分を織り込んであらたに環境を創りだすように。かつての未来都市のブリリアントなイメージが後退したあとの世界がやってくる。そうであるなら今回のパリ・オリンピックをどう見たらいいのかわかるかもしれない。なんだかこういうことをいくら書いてもモヤモヤした気分はちっとも晴れてくれませんね。説明する言葉は離れていくと勝手にしやがれでどんどん大きくなってしまう。ところが説明する言葉がそれ自身から自由になっていくらしいのだ。何かを説明している文が連なって答えになるのだが、そういう文がいくらでも出てくるとそれらの文は独自に関連性を見つけていき勝手なことをする。こういうのを適当に刈り込んだのが答えとして出てくるのであった。多様性なのだった。それぞれのゲームでそれぞれの身体が遊戯する。順位とかメダルとか少し離れてみているとどうでもいいようなものに見える。アスリートはよく「楽しんでくる」なんて言うが、こういうこと?なんだろう。どうでもいい感じになったね。たぶんこれが自分を世界からまもることなんだと思う。

 

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