ひとは集団で生きていた。有名になってしまう前のレヴィストロースの『構造人類学ゼロ』に収録された「未開社会の外交政策」の末尾におかれた文章の意味は何だったのか。21世紀的には記憶と関係しているのかもしれない。

「若くして亡くなってしまったある民俗学者は何年にもわたってブラジル中央部の小さな原住民集団の村(それはわたしが先に述べた村からそう遠くはなかった)を定期的に訪ね、そこで一定期間を過ごしていたのだが、彼は村を離れる時、原住民たちが一様に声を挙げて泣いたことを述べている。人びとが泣いたのは、彼が自分たちの村を去っていく悲しみゆえに泣いたのではない。人びとは、この地上にある唯一の生きるに値する土地を彼が去っていくことに対し、そのことを憐れんで泣いたのである。
 これらのちっぽけな村が貧窮の内にあり、人びとはほとんど砂漠に近いような荒れ地の中で今にも吹き飛ばされそうな掘立小屋に暮らし、そもそもごく少数の原住民が人知れず死んでいくことを思う時、そしてまた彼らがそこに住むのは文明に追い立てられたからであり、文明はさらにまた疫病をもたらし、人びとを死に至らしめたこと、そしてそのような巨大な悲惨の内に生きながら、人びとはその生き方こそが唯一の真に生きるに値するものと考えていることを知る時、このような「閉じられた社会」にこそ精神の豊かさ、社会的経験の濃密さがあるのではないのか、またそのような社会の泉を涸れさせ、われわれに教えてくれているものを失うことこそ、大いなる損失ではないかと思わざるを得ないのである。」
 
 われわれはますます開かれた社会に向かう。そのことは決して良いことばかりではないといっているのであるが、根本的なことを見失わさせていることもある、というのである。
 
 「開かれた社会」というといいことずくめだと思いがちだけど、それは違う。それは物事を突き詰めようとするし、しかもそれは誰にでも手の届く商品としてわたしたちにしかも安価で提供されていく。それはいいことなのだけれども、何かが違う。そういわれているわけだ。だから応えなければならないのだろう。「すべてが何かを、大きく間違えている。」というのだけど、果たしてそれはどういうことなのか。とことんまでいく「便利なこと」がよくないことにつながるということなのだろう。
 
 原住民たちは何か非常に特殊なことをしているというのではなかった。何せたかが原住民たちである。彼らのやってることといえば、ただ個々の人間の小さな努力の積み重ねであるにすぎない。それは彼らに何の社会変革などもたらさない。彼らはずっと原住民のままだ。
 世界的な経済破綻があったのでひと頃はおとなしくなっていたのが、経済は元気になってテクノロジーは一気に加速して、また大きな社会変動をもたらそうとしている。それは、原住民たちがやっているような「ただ個々の人間の小さな努力の積み重ね」が無効になっても、そういうのは吹き飛ばされても、ぜんぜん大丈夫な、画期的なことがまた始まるのだろう。
 それは、大きな自然災害から身を護ってくれるだろうか、人の命を守り人が確かに生きていけることに、それらは「そういう大きなこと」に関心をもっているのだろうか。デザインの派手さやちょっとした短い間だけひとに刺激を与える動画ややたらと賢いアプリで仕事を一瞬で進める、みたいなことを世界的な超大規模なスケールで超最先端の世界中のベスト・アンド・ブライテストな天才たちのものすごいスピードと能力で信じられないくらい大きく人びとをひっぱっていく。いかにも可能性に満ちたひろがる技術の世界であるかのようだけど本当にそうなのか。こういうことだけではなくもっと広い視点から人間のコミュニケーションを考えることもあってよいのではないか。ひょっとして、じつはテクノロジーは見かけとは違ってある意味では他の可能性には突破口は見つからなくて、大きく見たときにはもういっぱいいっぱいなのかもしれない。そういうので人は幸せに少しはなれるのかしら。

 原住民たちがやっていたこととは、「ひとは集団で生きていた」ということなのだった。ひらかれていく社会のなかでそれでも危うくない閉じている集団を生きることができるのだろうか。そのようなよい集団はひらかれた社会のよい場所にいれば可能なのかというとそうでもなさそうだ。周辺的な場所のほうがいいのかもしれない。そういうような周辺的な場所というのは実際には見当たらないとしても。
 それなら、もうほとんど誰かの記憶や懐かしい物語でもいいから、そういうのを引っ張ってこられる人間が身近にいたらいいのかもしれない。
 
 「可能性がある」とはどういうことなのだろう。先進的な起業家の好むものであってももちろん否定はしないがそれよりも自分の記憶を振り返ってみる方がいいのかもしれない。あるいは誰かの記憶の物語でも。
 
 レヴィストロースの友人の話した原住民たちは決して閉鎖的なひとたちではない。むしろ気前がよくて朗らかで開かれた人たちであった。こういう閉じた集団というのもあったのだった。

 「開かれていること」は単に可能性ということに親和的なので技術的なそれはそのままで良きことという印象を持ってしまいがちでもあることに意識的であることはなかなかに難しい。「可能であること」については、それをどのようなものであるか、について評価することと、それが何をもたらすか、を評価することとは全く別で、「何をもたらすか」を事前に知ることはほとんど不可能であると考えた方がよい。しかしこの、「わからないこと」については、都合の悪いことが予想されたときには「わからないこと」に入れてごまかしてしまいたくなる。技術的な経済的な「可能性」について話をするときには「開かれていること」がそういう方向に向かうことは考えておいてよいことだろう。
 
 自由な個人という考えには自由にどこでも行けるということも含まれていて、困ったことに遭遇してもそれを回避できるところにいけばいいだけだということもできる。ところが、集団でいることについては、集団そのものをそのままに、自由に好きなところへ、困ったことのないところへと大したコストもなく移動することは難しいことの方が多いものだ。もともと技術の発展は個人的な利便性から始まることも多い。個人的な能力を強化することはその人の可能性をひらく。結果として、集団的な生活の形態は個人的なそれぞれの可能性の選択肢の増えるにしたがって崩壊して個人的なスタイルへと変化していく。それはモダンでかっこよくて洗練されていて他の人たちから優位に立てる。自由に自分の人生を選択していけることはその個人にとっては素晴らしいことだろう。これが次第に増えて言って社会は変わっていくわけだ。集団たちから成るものではなくて個人たちから成る社会というイメージが立ち上がっていくのはとても美しい。ひとが集まるのは集団的なことというより契約的なその場その場でどのようにも変えられる余地のあるものとして受け入れられることが個人にとっては良いのは言うまでもない。こうして寂しいひとたちの社会が拡張していく。しかしそういうところならいつでもどこでも契約に守られていていつでもどこでも安心安全でいられるからいいには違いない。社会は個人の自由によって多様になっていくから個人と個人との契約は契約する相手が増えることで爆発的に複雑になり増大していくことになる。それは、限りなく発展するように見えていた計算システムの限界を超えてしまうだろう。技術的な限界が来るより前に、電気代とか最新の技術満載のマシンの値段とかどうなるのか。それよりも個人でいることの寂しさの方が問題になるのだろうな。非もて問題?みたいなこと?
 
 レヴィストロースの友達がいっていた原住民たちの心配は実はこういうことだったのかもしれないなんて考えてしまいそうだ。

 発展した社会であるといってもさすがに誰もかれもがみんなたった一人というほど極端にはなっていないから身内であるとか子供の頃の友だとみたいな関係の契約みたいではない知り合いもいるだろう。そうならばなんとかなりそうだ。どういうことだろう。たぶん個人的な記憶を思い出しようなことに関することなのだろう。

 記憶に関して最近の研究では、それは単に過去の経験を正確に検索して現実の場面に役立てるというものではなくて、それは未来を想像し始めるようになった結果として記憶が実際に生じたのだという説があらわれた。
 
 「過去の正確なコピーを保存することが人類の生存にとって重要だったと仮定すると、私たちの記憶は過去の完璧なコピーになったはずです。けれども過去の正確なコピーがあったところで、どうなりますか?重要なのは未来です。危ない目に遭うかもしれないのも、パートナーに出会えるかもしれないのも、未来の話です。ほとんどの人は、自分の成功を失敗よりもよく覚えています。つまり記憶にエラーがあるため、自己イメージに歪みが生じます。でも、パートナーになれそうな相手と出会った時は、自分のことを実際よりいいと考えている方が有利なはずです。自分がこれまで本当にやってきたこと、とりわけどんな失敗をしてきたのを正確に話すのはマズイですよね」ということだそうだ。未来を想像したとき、やになっちゃたらどうしよう。ところがこの世の現在の人々は、その多くは、人は誰でも公平に誤りなく正確に評価されるべきと考えるようになってしまった。
 こういうのって「マズイですよね」。人類はこういうときのために過去を記憶するようになりましたというのだ。自分の過去が自分の足を思いっきり引っ張ってどうする。過去の記憶が一番のお友達でしょ。というのが学問のいうところなのである。自分の過去を思い出すのと自分の未来を想像することが実はある意味で同じだというらしい。少なくとも脳を調べるとどうやらそうらしい。「実験で、被験者を磁気共鳴スキャナーにねかせて、過去の思い出と将来のシナリオについて考えてもらった。すると、どちらの時でも脳内の活動は驚くほど似ていた。そのような研究からわかったのは、過去を思い出す時も未来を想像する時も、反応する脳領域が重複していることだった」。それ以上に驚いたことは、何も考えないでと指示されたときにあらわれるのネットワークが見つかって、それはデフォルト・モード・ネットワークとよばれている。それが何をしているかというと、脳内で過去と未来を行き来して人間は覚醒時間の半分近くを費やしているという。人間はある意味ではひとりでいる時には何も考えていないときには何となく漠然とあいまいに過去と未来のストーリーを思い浮かべているというのだ。それはいいことばかりではもちろんない。マインドフルネスとか座禅して瞑想するときには何か一つのことに集中して考えることをする。例えば自分の呼吸のリズムとか外の世界の風の音とか。そうすると、デフォルト・モード・ネットワークが抑えられるので不安をもたらす未来の意識から解放されるというのである。もちろん、瞑想するよりもはるかにいいのは気のあったなかよしがそばにいて一緒に何かしてることだ。ひとは集団で生きていたのだった。
 過去について未来について考えることだれか仲良い人と一緒に話したりすること。この記憶の話は『海馬を求めて潜水を』という、作家と神経心理学者たちの姉妹が書いた本にあります。ほかにも面白い話題が満載でNHKが取材して番組にするといいかもね。もちろんプレゼンターは鈴木亮平君でしょ。

 この記憶のセオリーではあたかも記憶は過去と未来と連動していてさまざまなエピソードとともにあるというらしいから、それは、脳内には「集団で生きている」というようなネットワークがあるというのだから、人は集団で生きているといって差し支えないのだろう。ところが現実の日常生活世界では、独りでいる方がめんどくさくなくて技術的には全然OKな商品でどんどん囲まれていってしまいそうだ。というので、レヴィストロースの古い古い若い若いころの論文を読んで考えてしまったのでした。

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