瑞季さんと僕
あんなに熱かったコーヒーが水のように冷たくなるまで不機嫌でいられるのも一種の才能だと思う。
そんなこと言ったら彼女の頭は沸騰するだろうから言えないけど。
ずず、と僕が冷めたコーヒーをすする音が響く。
喫茶店。男女。不穏。別れ話。
お決まりのパターンだ。でも、少しだけ違う所がある。
僕たちは別れ話をしているのではない。
彼女がもう20回は繰り返しただろう言葉を同じように紡ぐ
「ルブタンの靴底が剝がれた。台無しになっちゃった。もう履けない。君のために頑張った結果なのよ!」
「そりゃ感謝してるけど、そんな華奢な靴で全力疾走したらそうもなるよ。違う靴にしたらよかったんじゃないかな」
「もう一足同じの買ってもいい?」
全然僕の話聞いてないよね?
それでも僕は20回目にして折れることになった
彼女の粘り勝ちである
「あーあーわかったよ好きな靴買えばいいよ
でも今月は節約しないとだからね、ちょっと、聞いてる?」
ご機嫌にパフェを頼んでいる彼女には僕の言葉は耳に入らないようだった。
開かれた窓からは気持ちの良い初夏の風が入ってくる
こぼれた日差しが微笑んだ彼女の橫顏を照らして
ありきたりに綺麗だ。
そう思った。
全く瑞季さんには敵わない。
これは彼女が働く會社の社長の弁らしい。
激しく同意である。
営業一位の座を譲らないミステリアス美女としてその名を社内に轟かせている彼女
押し寄せては引いていくまるで波のように掴めない人だと詩的に表現した人もいたらしい
最も、僕に言わせれば彼女はその波にぽこぽこふざけたように浮かぶクラゲのようなものだが。
それでも仕事を半休とってルブタンの底が剝がれるくらい走って僕の小学校最後の運動会に出てくれたところを見ると、普通の母親らしいところもあると思わざるおえない。
そう。彼女、後藤瑞季は僕の母親だ。