追悼・青山真治監督の傑作『EUREKA ユリイカ』言葉以上に響き合う音

山をバックに画面下から頭が現れ、「大津波が来る。いつかきっと。そしてみんな、いなくなる」という未来の予言めいた不吉な言葉を呟く少女が映し出される。まだあどけない宮崎あおいである。茶色っぽい色彩に加工をされたモノクロ映像。青や緑の色彩がないので、砂漠や荒野のような荒々しい無機質な映像だ。それは映画全体を支配する乾いた空虚感と重なっている。点滅する信号、道路の向こうからバスが坂道を上って姿を現す。何かが起きそうな不穏な空気。そう、この映画は言うまでもなく、「バス」の映画である。「バス」で死にかけ、社会と離れて家に閉じこもり、「別のバス」で、もう一度やり直そうと旅をしながら、死の呪縛から抜け出そうとする。幼い兄妹を生の世界に引き戻そうとする役所広司だが、自ら病を患い咳込み、死の世界に近づいていく皮肉。「どうして人を殺ししちゃいけないの?」と問う兄・直樹(宮崎将)に、自転車の後ろに宮崎将を乗せて、ぐるぐる回り続ける役所広司。「生きろとはいわん。死なんでくれ」という彼の願いは宮崎将に通じたのか?妹の梢・宮崎あおいは、兄の言葉にならない声を聞きながら、苦悩し、泣くばかりだ。

若くして今年亡くなった青山真治監督の追悼の意味を込めて、どうしても見直したかった作品だ。紛れもなく青山監督が到達した傑作である。3時間37分という長尺の作品。九州のバスジャック事件に巻き込まれ生き残った運転手・沢井(役所広司)と幼い兄妹(宮崎将・宮崎あおい)の喪失と再生の物語である。兄と妹は終始無言。沢井は、事件後に家出をして行方不明になり、二年後に戻ってくるが、若い女性の通り魔殺人事件が頻発する中で、近所から不信感をもたれている。社会から疎外され、白い目で見られて生き残ってしまった3人は共同生活を始める。説明は極力省かれており、台詞も少ない。それなのに、映像には言葉に出来ない心の叫びのようなものが満ちているのだ。おそろしい作品だ。

冒頭、バスに乗る兄と妹を見送る母親(真行寺君枝)が丘の上から手を振る場面がある。帽子をかぶった清楚な母親のイメージが、どこか虚構めいている。そして駐車場に止まったバスの手前になぜか馬がいて、青山真治の名前がクレジットされる。ナンだ?この馬は?西部劇のジョン・フォードやハワード・ホークスへのオマージュか?事件が起きたことが唐突に映像で示される。血だらけになった男の手と死体。次のロングショットで、バスから降りて走ってくる男に銃声音が響き、男が倒れる。それをクレーンカメラで移動しながら俯瞰でパンをするとパトカーが何台もやって来て、刑事(松重豊)が進み出て、バスを双眼鏡で覗くまでの長いワンカット。田村正毅のカメラが素晴らしい。無表情な犯人役を利重剛が不気味に演じており、バスの中で殺されかけて、奇跡的に生き残った運転手と兄妹が描写される。直接的ではないアクション描写とロングショットが効果的だ。

兄と妹の物語とは直接関係ない運転手・沢井の役所広司の物語も丁寧に描かれている。同じ職場で働く女を夜道で送っていく女との関係性。離婚を切り出された妻、国生さゆりとホテルのレストランで再会する場面。事件によってすれ違ってしまった男女のせつなさが伝わってくる。そういうサイドストーリーを丁寧に描いているので、3時間以上の長い映画になる。バス旅の途中のそば屋で、妻とそっくりな女に会うシーンも印象的だ。一つに集約されないそれぞれの時間。

音の使い方も効果的だ。役所広司が「生き残っちゃいけないのか?」と自問しながら、仰向けに寝転びながら足を上げ下げして、ドンドンと階下に音を響かせる演出。いとこの斉藤陽一郎がゴルフのスイングをするブンブンという音。そしてピアノを弾く音に過敏に反応する兄の直樹(宮崎将)。旅の途中で、眠れない夜のバスの中、3人でコンコンとノックをし合う音。3人の心がつながる瞬間だ。兄の直樹が警察に連れて行かれた後で、バスの中で泣く梢(宮崎あおい)とバスの外の沢井(役所広司)との間で、そのノックは繰り返される。音による無言の会話。私はビクトル・エリセの『エル・スール』を思い出した。ベッドの下に隠れた少女と上の階にいる父のステッキのコツン、コツンという音。響き合う音は、言葉以上に豊かにお互いの思いを伝え合う。

役所広司がショベルカーの操作を同僚の光石研に教えられる場面が、「別のバス」の運転につながっていく。同じように直樹(宮崎将)はバスの運転を役所広司に教えてもらう。身体を使って何かを操作することは、前向きに「進む=生きる」ことにつながっていく。
バスを動かすと、干していた洗濯物が落ちる場面もなんだかいい。段ボールをソリにして坂を滑る場面もある。停滞して動かない場面ばかりの中で、主体的なアクションが感じられるからいいのだろう。斉藤陽一郎が最初に使っていたポラロイドカメラは、後半では宮崎あおいが役所広司を撮影する。ジーというプリントアウトされる音は、彼女の意志のようだ。ヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』を思い出す場面だ。停滞して内に閉じこもっていたものが、少しずつ動き出す。

バスでの旅はロードムービーそのものであり、移動するバスの風景や牧場を歩く4人のロングショットはヴィム・ヴェンダースの『さすらい』や『まわり道』などを連想する。宮崎将が顔に血を塗りたくる場面は、ゴダールの『気狂いピエロ』だろう。いろんな映画へのオマージュを散りばめながら、青山真治は、九州の広大な風景をバックに、死の沼から抜け出そうとする3人を描く。阿蘇の噴火の煙もまた、死の世界から漂ってくるようだ。

「梢、海を見に行け。お前の目から俺の目に、海を映してくれ」と兄・直樹の声が梢に聞こえてくる。かつて兄と妹は無言ながらも、一心土同体だった。それが何度もカメラ目線の2ショットで表現される。しかし、兄のどうにもならない苛立ちが、妹ととの距離を作っていく。従兄弟の斉藤陽一郎が兄妹に勉強を促す場面で、長回しのワンカットがある。家の中で勉強する妹、兄は勉強を嫌がって家から逃げ出してフレームアウトし、カメラがパンをすると、窓の外で従兄弟に追いかけられて逃げ回っている兄の姿が映し出される。兄と妹が離れていく重要なシーンが特徴的な田村正毅のカメラワークで描かれる。

ラストの山の上で、梢(宮崎あおい)が初めて声を出す場面は感動的だ。海で拾った貝を投げながら、「お父さん、お母さん、犯人の人、お兄ちゃん、秋彦くん、沢井さん、梢」。ラストは、モノクロ映像がカラーに変わり、美しい山の緑が画面に現れ、カメラは空撮になり、役所広司と宮崎あおいを空から小さく映し出す。大きな山々が聳える大自然の中での頼りない小さな二人の姿。「バス」で死の淵を彷徨ったモノたちが、「別のバス」でのやり直しの旅で、少女は「声と色彩」を取り戻した。そのことがこの映画の救いである。一方で兄・直樹の呪縛と役所広司の死へ近づく不吉な咳の音。せめて直樹が社会に出てくるまで、妹のためにも沢井(役所広司)には生き延びて欲しいと願うばかりだ。そんな気持ちにさせるほど、幼い兄と妹の存在がせつなくおしく描かれている映画だ。

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