濱口竜介の奇妙な新作『悪は存在しない』~謎のラストと自然との対峙~
画像(C)2023 NEOPA / Fictive
なんとも不思議な映画である。名のある役者は誰ひとり出ていないし、物語もあるようなないような。レビューを書きづらい作品だ。いずれにせよ、謎の多いラストシーンもあり、ネタバレになるので、鑑賞後にお読みいただければと思います。
最近見た『落下の解剖学』が結末を曖昧にしたように、本作もどうとでも解釈できるような曖昧で複雑な終わり方をしている。答えは一つではないことだけはハッキリしている。正解もなければ誤りもない。善と悪がそもそも曖昧なように、正誤も曖昧なのがこの世界だ。善と悪をハッキリとさせるのは、フィクションだからだ。そのほうがスッキリするし、ハッキリさせていくことで物事を前に進ませ、価値を作っていく。「悪は存在しない」というタイトルは、いろいろな意味を含んでいる。善悪を作り出したのは、人間世界であるし、国家、村、民族、宗教、倫理、文化など様々な共同体の共同幻想がそれぞれの善と悪を作り出す。そうしないと社会がうまく回らないからでもあるし、混乱するからだ。しかし、自然の世界にはそもそも善も悪もない。自然界というものは、そういう混沌としたものだからだ。生命の進化が善でもなければ、地震や台風が悪でもない。人間に危害を加えることもあれば、恩恵をもたらす場合もある。それが自然界である。
自然環境問題の保護とグランピング場施設の開発の話が対立軸になっているように見えるが、本作の主役である巧(大美賀均)が言うように、この土地の住民も開拓3世だったりする。自然を破壊して森を切り拓き、農地を耕し、住宅を建ててきた。人間は自然を壊しながら、社会を作ってきた。だらか、グランピング業者が必ずしも悪という訳ではない。補助金狙いの芸能事務所の詐欺まがいの小銭稼ぎであったとしても、どんな開発にもそれなりの理由があるし、恩恵がある場合もあれば、害悪でしかない場合もある。「問題はバランスなのだ」。
森の木々のショットが下からカメラを移動させながら映し出されていく。巧が娘の花(西川玲)に教えるように、森には様々な木があり、トゲがあり人間を傷つけるものも、美味しく食べられる葉もある。湧き水の水を汲み運ぶ便利屋の巧。自然の恵みを享受しつつ、タバコも吸うし、電気鋸の人工的な音で森の静寂を壊したりもする。森の静寂を壊す音として、他にも何回か聞こえる銃声がある。シカ猟の銃声だ。巧が薪割りをする場面が長々と映し出されるが、後にグランピング業者の高橋(小坂竜士)が「気持ちいい」と叫ぶように、斧を振り下ろす薪割り作業は、どこか自然と人間のバランスがいい。人間の身体を使った作業が自然と向き合っている感じがするからだろうか。その作業は、なんだかずっと見ていられる。
冒頭の英語でのタイトルの出し方は、まるでゴダール映画のようで、音楽が突然カットアウトされる切断の仕方もJ=L・ゴダール映画の音楽の使い方を彷彿とさせる。娘を迎えに行った学校の校庭では、子供たちがストップモーションのように不自然にフリーズしながら、「だるまさんが転んだ」で遊んでいる。この映画は、どこか奇妙な感じが時々挿入される。便利屋の巧が、どういう経緯をもってこの森に住むようになったのか、娘の不在の母親はどうしたのか?そして娘の花と巧の関係も今一つハッキリしない。何も背景が描かれていないのだ。わかるのは、花は一人で森を日常的に歩き回っていることと、巧はしょっちゅう花を迎えに行く時間を忘れてしまうこと。そしてこの親子は仲が悪いわけでもないということだ。何か問題を抱えているようには見えない。ただ母が不在なこと。花が鳥の羽を拾い集めるのは、母への思いと関係があるのか?チェンバロの説明が劇中にあるが、母もまたチェンバロを弾いていたのか?よくわからない。ただ花の迎えの遅れは2度繰り返され、巧は「あっ」と頭に手をやる動作が2度行われるが、反復とともに2回目はズレが起きてくる。
グランピング業者の町民説明会で巧は賛成でも反対でもなく、とても理性的に振舞っているし、説得に来た高橋と黛(渋谷采郁)に対しても拒否するでも受け入れるでもなく、バランスを持って接している。花はそれを窓から見つめるばかりで、関心もなく一人で牧場や森を歩きまわる。
シカの水場にグランピング施設を作ることで、シカの森の通り道が塞がれる。「臆病なシカは人間を襲うことはない」と断言する巧に「本当ですか?」と聞くと、「手負いのシカは別だ」と言う。結果的にその言葉がラストシーンに繋がっていくのだが、そのとき巧は「シカはどこへ行くんだ?」と自問する。森で葉ワサビを巧が見つけた場面で、カメラは葉ワサビ側から正面のカメラ目線の巧を写す。ちょっと違和感を感じるカメラ目線だが、自然の側から巧や高橋たちを見つめ返すような映像である。ラストのシカの眼差しは強烈に見るものに印象を残す。人間が見ているようで自然に見られている。シカに見つめ返されるように、森が人間たちを見つめている。シカの死骸も、手を傷つける木のトゲも、銃で撃たれた手負いのシカも、自然は人間たちをが抱え込みつつ、時に攻撃的になる。水は上から下に流れるように、その自然の摂理を無視すれば、どこかにそのシワ寄せが行く。
グランピング業者の高橋や黛がたんなる卑劣で杜撰な開発者として一面的に描かれていないところが物語に厚みを持たせている。仕事に擦り切れ、心が壊れ、「仕事をやめて田舎でやり直そう」などと考えたりしている。都会から移住してきたうどん屋の奥さんのように、都会(開発)と田舎(自然)という対立軸はうわべ的なものに過ぎない。どちらの要素もあるのが人間であり、自然の恵みに感謝し、癒され、一方で自然を切り拓き、動物の道を塞ぎ、破壊する存在でもある。その矛盾が、巧のラストシーンで暴発する。
(ラストシーンについて)
なぜ巧は、高橋の首をあの場面で絞めたのか。娘の花が手負いのシカに襲われそうなその時に。この映画で理解できないもっとも不自然な巧のアクションである。それは説明してもしょうがないような気がする。もしかしたら、巧自身にもわからない行動だったのかもしれない。
そもそも花を探す巧の必死さは描かれていなかった。森で怪我をした黛に傷の手当をして、注意が足りなかった、「すまない」と謝ったりしている。傷を心臓より高い位置で維持して止血させる知恵まで授ける。花を探さずにそんなことをしている場合か、と不審になるが、それも彼のバランスなのかもしれない。このあたりから巧は何か奇妙なのだ。行方不明を知らせる町内放送と暗闇迫る巧の小屋の外で佇む黛と煙突から立ち昇る煙の描写は不穏さそのものだ。
そして懐中電灯で探す夜の森から突然、開かれた明るい草原でのあの場面は、どこか現実離れしている。なぜ、突然あんなに明るいのか。月明りなのか?本当にあのとき、花は手負いのシカと対峙していたのか。私は、数時間前に起きたことを反芻する巧の幻想なのかと思う。巧たちが花を発見した時は、すでに花は地面に倒れていたのではないか。巧は手負いのシカに花が襲われたのだと想像し、倒れた花に近づこうとする高橋を羽交い絞めにしたのだ。「お前を花のそばに近寄らせるわけにはいかない」と。自然の脅威を知っている自分だけが、その場に立ち会えるのだ、親子だけの特別な神聖な場所なのだ、と。
あるいはこんな風にも思う。花が手負いのシカと対峙している神聖な瞬間に、高橋を近づけさせてはいけない、と思ったのかもしれない。それは自然とともに居続けた花だけが対峙し得る特権的で神聖な時間だと巧は思ったのかもしれない。高橋みたいな都会から来たばかりのよそ者が立ち入れない場所と巧は思い、高橋の前進を遮っているうちに何かが暴発したのかもしれない。
巧は花の鼻から出た血のぬぐい、花を抱きかかえながら霧がかかる森へと消えていく。その後ろ姿。ヨロヨロと立ち上がって倒れる高橋。死んだのか、死んでいないのか。最後は荒い息づかいと森の木々たちの揺れる映像。オープニングの反復とズレ。恐らく巧が花を抱きかかえて走っているのだろう。そしてラストはハッキリよく見えない。森のあの水辺か?巧は花を抱きかかえたまま入水するのか?よくわからないまま映画は終わり、「悪は存在しない」と今度は日本語タイトルが出る。花の死(死んだかどうかもわからない)は誰が悪いわけでもない。
巧が町民説明会でずっと被っていた帽子を脱いで開拓3世の話をするように、ラストで花はシカと対峙して帽子を脱ぐ。このアクションが親子で反復される。攻撃でも防御でもなく、自らを晒すこと。真摯に向き合うこと。この鮮やかな少女の身振りがいつまでも脳裏から離れない。オープニングの木々を見上げる花の横顔のカットとともに、静かに自然と向き合う花がそこにいる。
2023年製作/106分/G/日本
配給:Incline
監督・脚本:濱口竜介
企画:濱口竜介、石橋英子
プロデューサー:高田聡
エグゼクティブプロデューサー:原田将、徳山勝巳
撮影:北川喜雄
録音:松野泉
美術:布部雅人
編集:濱口竜介、山崎梓
音楽:石橋英子
キャスト:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎