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黒沢清のセルフリメイク『蛇の道』~引きずられる男たちの終わりなき反復~

(C)2024 CINEFRANCE STUDIOS - KADOKAWA CORPORATION - TARANTULA

自身の作品をフランスでリメイク。主役も哀川翔から柴崎コウの女性に代え、柴崎コウはフランス語を喋る。事務的に感情を込めずに淡々と。棒読みのような台詞まわし。黒沢清の映画の登場人物は、いつだって何を考えているのか分からない人物ばかりが出てくる。内面がまったく見えてこない不気味さ。それが黒沢清の映画だ。これもまた奇妙な映画だ。98年版は未見。

娘を殺された犯人を捜し、復讐を果たそうと父親のダミアン・ボナールが、精神科医の柴崎コウの助けを借りながら、ある財団の関係者を次々と拉致し、追い詰めていくサスペンスホラー。気持ち悪い不気味さはいつも通り。やや笑いを伴う滑稽さは今作はあまりない。人を精神的に支配する『CURE』や子供を殺されて執念深く復讐するWOWOWドラマ『贖罪』などを思い出した。

廃屋や使われていない倉庫、誰もいない遊園地など、殺風景な廃墟ばかりが出てくる。そして寝袋に男を詰め込んでひたすら引きずって運びまくることが繰り返される。森の小屋で男を拉致したときも、男は自ら寝袋に入り、森の中で引きずられていく。ライフルで撃たれそうになりながら、二人は森の中を寝袋を引きずって走る。もっと近くに車を止められなかったのか、なんて思うのだが、これは森で寝袋を引きづらせて走らせたかっただけなのではないか?なんて思ったりする。とにかく男を拉致して、寝袋に入れて引きずり、車のトランクに入れ、廃屋のような倉庫に鎖でつなぎ、動物のように餌を与えることが繰り返される。そして汚物を綺麗にするために水を浴びせかける。壁に並ぶ男たちの死体が増えていき、その姿が少しコミカルだ。

客観的な事実が何一つ描かれないため、本当に財団が子どもたちの臓器売買をやっているのか、ダミアン・ボナールの娘は本当に財団に殺されたのか、確かなことは何一つ分からない。柴崎コウの方が拉致を主導しており、ダミアン・ボナールは、柴崎コウに操られているだけで、すべては柴崎コウの妄想なのではないか?なんて思ったりもする。彼女が死んでいる男に何度もナイフを突き立てる場面があったが、その殺意の異常性はダミアン・ボナールより際立っていたし、精神科医としての患者の西島秀俊とのやり取りの表情や夫の青木崇高とWEBでやり取りする場面の冷たさなど、それぞれの場面で違う顔を見せていた。そしてなぜか自転車に乗って移動する奇妙さ。「いちばん怖いのは終わらないこと」と言っていたが、何度も繰り返される少女の死体発見現場の描写を朗読する声、最後の遊園地の倉庫でも柴崎コウの繰り返される声が印象的に使われていた。

少女がピアノを弾く映像も何度も繰り返されるし、結局は男たちを拉致監禁する繰り返し=反復の映画なのだ。その復讐の反復は、柴崎コウが言っているように終りがない。終わらせるためには、犯人をでっち上げるしかない。物語が必要なのだ。ダミアン・ボナールは妻との対決となり、柴崎コウも青木崇高との恐ろしいやり取りがあって映画は終わる。あの財団にいた子どもたちは、一体何だったのか?そもそも子どもたちを登場させる意味はあったのか?財団そのものの存在の物語性を異化する妙な佇まいだった。黒沢清はいつだって物語を作りながら、物語を壊すのだ。


2024年製作/113分/G/フランス・日本・ベルギー・ルクセンブルグ合作
原題:Le chemin du serpent
配給:KADOKAWA

監督・脚本:黒沢清
製作:ダビド・ゴキエ、ジュリアン・デリス、小寺剛雄
原案:高橋洋
撮影:アレクシ・カビルシーヌ
編集:トマ・マルシャン
音楽:ニコラ・エレラ
キャスト:柴咲コウ、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、グレゴワール・コラン、西島秀俊、ビマラ・ポンス、スリマヌ・ダジ、青木崇高

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