『神仏習合』日本人としての在り方を考える
昨日、山形県にある羽黒山に行ってきました
そこで受けた感覚や想いイメージを書き留めておきたいと思います
何かを感じましたら
遠慮なくご意見・アドバイス等いただけたら嬉しいです。
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羽黒山の山頂に佇む
『出羽三山神社』
ここは、その昔
『神仏習合』として在った場所である
神と仏が共存する場
その名残が今も残っている
その空気感や佇まいが
とても神聖な場所に思えてしかたなかった
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僕のイメージは
神社=スピリチュアル
仏=現実
つまり
神:自分の内の世界を見つめ精神性を高めていくための場
仏:自分の外の世界との繋がりを通し現実を己とし生きていく力を得る場
こう捉えている
そして、その間にあるものが
「芸術」である
精神性を、命を、魂を
現実の世界に表すものが「芸術」であり
そのことを多くの人に伝える役割を担ったのも「芸術」在り方であろう
神と仏の間に立つ“人”に備わった力、才能、能力を存分に表現できる手段
芸術
表現方法は色々あっていい
証拠に、歌や音楽、踊りや舞、絵画に建物と様々である
そして
その“表現(芸術/アート)”を通し、人々は、自分を生きていたんだと思う
そう
人間で在ることが、もう、すでに、アートであるということ
生まれた瞬間に芸術家とし在る
発する言葉、行動、想い
すべたがアートであり、人間であり、自然である
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その昔
「神仏分離令」というものが発信された
字のごとく
神と仏を分けること
この瞬間
僕らの中の一致されていたもの、統合されていたものが
強制的に分けられてしまったのではないかと思う
間に立つ“人”は
どちらの“側(肩を持つ)”につくこともできずに
心の寄り処を今も探していいるのではないか?
それぞれが互いを尊重し、立場をとり
在り方を全うすることで取れていたバランスが失われた瞬間に
僕らは生き場(行き場)をなくしてしまった
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それから約150年
このタイミングで国宝である
「羽黒山五重塔」が一般に公開された
何が意味があるのか?
そう思えて仕方ない
新年号となった、今日
“間”に立つ“人”として
これからの時代をどう生きたいか?
考えるタイミングなのかもしれないと強く思った
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近いうち
「山伏」の業を体験したいと思う
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