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#3 後夜 (嫁と酔いの宵にて)

## 後夜

 こんな嫁を見た。

 雪見障子から差し込む月の光が、和室用椅子に座る彼女を照らした。静かに閉じたまぶたの周りには、深く刻まれた皺が見えた。両の手は膝の上に置いていて、それにつながる腕は痩せて細い。

 今晩は金婚式を祝うために、いつものダイニングとは場所を変え、客間にて庭を眺めながら食事をすることにした。孫たちからもらった日本酒と、スーパーで買った刺身と惣菜が並ぶだけのささやかな宴だった。それらを食べたのは私だけだった。彼女はほとんど手をつけなかった。

 静寂の中、お猪口に注がれた日本酒をくいっと飲んだ。一人酒が進む。

 ふと気づくと彼女はこちらを見つめていた。そして、こんなことを言うのである。

「私はもう死にます」

「そんな弱気なことでは困る」と答えた。しかし、最近の衰弱ぶりを見ると、確かにそうなのであろうと思う。この年になるまで、大病なく過ごせたことを、幸せに思ったほうが良いのかもしれない。

 健康には人一倍気を使っていた彼女でも、当たり前のことだが、老いにはかなわない。若い時分から、酒を飲みタバコを吸ってきた私のほうが、まだどうにか元気であることが不条理なことに思えた。

「もう寝なさい。ベットまで運んであげよう」

 そう言って、彼女を椅子から抱え起こした。肩を貸し、月光を背に、寝室までの廊下を二人でトボトボと歩いた。

 すっかり痩せてしまった彼女は重くはない。しかし、自分の老いた体は、若いときに比べて自由がきかない。「よいしょ」の掛け声とともにどうにか、彼女をベッドに寝かせた。そのまま、私も自分のベットに横になった。お酒は少し飲んだだけだったが、酔いが回ってきてしまっている。昔はこの程度ではなんともなかったはずだなのに。

 うつらうつらしていると、彼女が不意に起き上がった。そして、こちらをじっと見つめる。夢かもしれないな――そんなふうに思った。彼女ははっきりとした調子で尋ねた。

「私、重くなかった?」

 そう尋ねられたとき、尽きることのない無数の思い出が、波のように押し寄せてきた。

 震災があった日、家に帰れなかった私をずっと待ってくれた。

 奮発して予約したレストランのディナー料理。キジ肉のジビエ料理に驚いたけど美味しく食べた――あれは何のお祝いだったっけ?

 仕事を言い訳に娘の育児を全然しなかった私を、泣きながら責めたてた彼女。

 お気に入りのピアニストの訃報を聞いて「最後の日本公演、どうにか都合つけて聴きに行けばよかったね」といい、娘が寝静まってからちょっとだけCDをかけた夜。

 娘の結婚式の前日に、私の晩酌に付き合ってくれた。

 退職の日は彼女は豪勢な料理と『プラチナ』を冠するウィスキーを用意してくれたっけ。

 彼女の病名を聞いた夜――私達は二人で泣いた。

 そして、最後に思い出したのは、あの夜のこと――二人の結婚式だった。

 ――ああ、もう50年が経ったのだ。

***

 両腕の中に彼女がいた。私は彼女を抱き上げ、彼女は私の首に腕を回していた。彼女と目があった。パチリと大きな瞳だった。その可愛らしい顔の下で、ミッドナイトブルーのドレスがなびいた。それは彼女の若々しい肉体に、よく似合っていた。

 ふと気づくと、階段の下からたくさんの祝福の声が聞こえる。そんな中で、彼女はグッと頭を起こし、私の顔を正面から覗き込んだ。――なにかの回答を待っているようだ。

 不意に、涙が溢れてきた。それは幸せの涙だった。最高のパートナーと結ばれ、これから共に生きていけることへの喜びだった。あるいは、そんな彼女と添い遂げることができた感謝かもしれない。

 どうしても彼女に伝えるべきことがあった。だから私は泣きながら――声が震えたけれどはっきりと答えた。

「重くなんてなかったよ」

 彼女は安心したようにコクリとうなづいた。

 そのまま彼女にキスをした。漆黒の闇に放たれたその言葉が、時空を超えて、すべての夜の彼女に伝わってほしいと思った。

***

冒頭の引用文は『[夢十夜(夏目漱石/青空文庫)](https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html)』によりました。

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