#2 中夜 (嫁と酔いの宵にて)
## 中夜
こんな嫁を見た。
扉を開けるとピアノを弾く彼女の後ろ姿を見えた。一人娘が巣立ち、使う者がいなくなったピアノを、彼女はよく弾くようになった。曲目は悲愴ソナタ――ちょうど第一楽章が始まったところだ。彼女も私の帰宅に気付いただろうが、演奏を続けている。私としてもせっかくの音楽を中断させる理由もないため、そのまま近くのソファに横になった。彼女はベートーヴェンのピアノ・ソナタが好きで、フリードリッヒ・グルダの全集――それもデッカの録音が最高だと言う。たぶん愛好家の中でも、少数派な意見だろう。
今晩は彼女との結婚二十五周年を祝う予定だった。しかし、取引先との急な接待が入っていしまい直前でキャンセルとしてしまった。タイミングを見て早めにお暇するつもりだったが、運が悪いことに酒を強要される飲み会となり、すっかり酩酊しながら帰ることになった。
今から帰る旨を伝えたときには「仕事だからしかたないよ」というメッセージだけが返ってきた。
重厚で苦しみのある第一楽章が強い打鍵の残響とともに終わった。彼女と聴きにいったピアノ・コンサートで、私が楽章の間で拍手をしてしまい、慌てて止められたことを思い出した。そういえば、それを最後にデートらしいお出かけをしていない。
一瞬の間の後に、有名な主題で知られる第二楽章が始まった。
夜の闇と静寂の中で彼女の演奏を聴きながら目を閉じると、気持ちの揺らぎを感じた。それは次第に心の琴線を根底から動かすような深いうねりとなっていた。思わず泣きたくなったが、泣くわけにはいかなかった。何しろ私にはその理由などないのだから。さらに、今私が感じている悲しさは、誰に向かっても説明することはできないし、仮にできたとしても誰も理解することができないものだった。
彼女の演奏が私に影響を与えているが、不思議なことに彼女自身には悲しみの様子はなかった。後ろ姿からの推測でしかないが、むしろ楽しんで演奏しているようにも見える。けれども、説明のつかない悲しみは風のない夜の雪のように、僕の心の積もっていった――曲は第三楽章になっていた。
演奏を終えると彼女は鍵盤の蓋を閉じ、こちらを向きながらそっと微笑んだ。私は「どうやったら気持ちを曲に乗せることができるのか」と尋ねた。彼女は両手を膝にのせ、まるで子どもに自分の考えを伝えるかのように、一つ一つの言葉を丁寧に選びながら答えた。
「悲しい哀しいって重たく演奏しても、案外伝わらないもの。安っぽくなっちゃう。だからね、普段はあくまでも平静を装ってね――私は大丈夫よ――って。そしてね、曲中で数カ所しかないけど、本当に大事なところだけほんの少しだけ、気持ちを表現するの」
そういうものかと感心した。彼女はそっと立ち上がり、ソファの脇を通り過ぎて、部屋の扉の方に向かっていった。そして、ドアノブに手をかけながら、こちらに振り返って言うのである。
「これって何も演奏に限った話じゃないの。ねぇ――分かっている?私は今、悲しい」
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