#68 Wbasic (宗教編)
砂漠の宗教
世界四大文明のエジプトとメソポタミアの間の貧しい砂漠の大地に暮らす民族は、過酷な風土の中で困窮の生活を送っていた。彼らは他民族に征服され支配されるというつらい環境に置かれていた。
紀元前1000年頃、12部族からなるイスラエル民族は国家形態を示すようになっていく。そして続く「ダビデ王」の時代から統一国家として歴史に登場する。しかし、イスラエルはまとまらず続く「ソロモン王」が自分の部族「ユダ族」だけを優遇する政策をとったため、他の10部族が怒って離反し、国家は南北に分裂する(紀元前922年)。分裂した「北イスラエル」はほどなくアッシュリアにより滅亡され(紀元前722年)、さらに南の「ユダ王国」もバビロニアに離反したことから攻められ、バビロニアに捕らわれる。(バビロン捕囚 紀元前586年)。しかし、バビロンはほどなくペルシャの軍門に下り、捕らわれていた「ユダ部族」(ここからユダヤ人という呼称が生じる)は解放され、ユダヤ人はエルサレムに帰還する。ただし、イスラエルという国が再建されたのではなく、ペルシャの政治的支配下におかれた。
引用:なぜ私たちは未来をこれほど不安に感じるのか? 松村嘉浩著
それでも彼らは、厳しい環境に耐えなくては生き延びれなかったので、民族内で希望になるような聖典がいつしか生まれた。(必ずしもそれが理由ではない)この民族宗教は、彼らがどうしてこのような過酷な環境下に置かれているかを説く。
民族宗教:その民族に繁栄をもたらすことが中心にある。
それは、自分たちの祖先が「神に背いた罪」によって悲惨なこの地上に追放されたのだと。人類の祖アダムとイブが神の命令に背き、エデンの園にある禁断の木の実を食べてしまい地上に追放された「原罪」。
原罪:人類が人類である限り根源的に持つ罪のこと。
彼らの民族宗教の名は「ユダヤ教」といい、現在でも存在する。そのため追放の地である地球は、罰を受ける場であるため、生きることは苦しいのが当たり前で仕方がないことだ。
だが神は、ユダヤ民族の祖とされるアブラハムとある契約を交わす。そこには希望があり、神への絶対的な服従を誓えば「乳流れ、蜜流れる地」である肥沃な大地である【カナンの地】をユダヤ民族に授けましょうと告げた。
カノンの地:現在のパレスチナ地方
ユダヤ民族に救済を約束してくれるユダヤ教の神様【ヤハウェ】は万能な絶対神であり、この世界の創造主である。そのため、ユダヤ教徒は神の言いつけは絶対であり、約束を守らなくては希望は剥奪され、厳罰が下る戒律主義となった。
絶対神であるヤハウェは、地球や宇宙をも創り出した存在なので、姿や形がない存在である。また、ユダヤ教は偶像崇拝を固く禁じている。
このような宗教になった背景には、環境の厳しい砂漠で生まれたことが影響していると考えられている。砂漠は自然環境が厳しく簡単に人の命を奪い、多くを与えてくれるものではないため、神は「与えるもの」ではなく「奪うもの」であり、ルールを破るものから奪うものになった。
ユダヤ教のような一神教を【砂漠の宗教】という。これに対して古く文明の栄えた自然環境の豊かな地域の宗教は多神教である。神は人に恵みを与えるものであり、豊かな自然そのものが神になった。
日本では、八百万の神というように国土に花鳥風月があり、自然環境が豊かなため、自然のものにはすべて神が宿っていると考えられ、それらを信仰したのは頷ける。このような考えは、日本人であるわたしたちには、なじみ深い。
山の神もいれば水の神もおり、人もまた自然の一部であり、その自然に生かされていると考えられた。これをたとえて【森の宗教】という。
ユダヤ教の生まれた時代は多神教が主流で、一神教であるユダヤ教はマイナーな存在であった。彼らのように辛い環境に置かれ、砂漠を住処にせざる得なかった、貧しく悲惨なユダヤ民族のためだけのものだったのだ。
ユダヤ民族にとってはヤハウェが宇宙を創造した唯一無二の絶対神なので、多神教である他の神に対して寛容にはなれなかった。ユダヤ教の人々は、ヤハウェ神と契約を結んで戒律を守ることが義務であるためだ。そのため、他の民族に征服されても諦めることはなく、いずれヤハウェ神が彼らを約束の地へと連れて行ってくれると信じているのだ。
ユダヤ教の人々がヤハウェ神と交わした契約書を、【旧約聖書】という。
ナザレのイエス
ユダヤ教はユダヤ民族のための民族宗教である。
ユダヤ人のための宗教であるユダヤ教におけるユダヤ人の定義は、ユダヤ教に入信することである。そのため、わたしたち日本人がユダヤ教に入信した場合、定義上はユダヤ人になる。ユダヤ教はヤハウェ神との契約なので、入信し厳しい戒律を守れば救済してくれるという。
この砂漠の宗教であるユダヤ教の刷新運動を起こしたひとりに、【ナザレのイエス】がいた。彼は戒律主義のユダヤ教を偽善だと批判して、「ヤハウェ神は本当は愛を持って人を見守ってくれる」と人々に説いた。
イエスは、「本当のヤハウェ神は、愛をもって見守ってくれているもので、神に離反し罪の中にいて、今も彷徨っている人間を救おうとしている」と述べて、ヤハウェ神は慈悲深い神なのだといった。
しかし、ユダヤ教の人たちからは到底理解できず(戒律主義の宗教であるため)異端児扱いをして、イエスを磔の刑にして殺してしまう。イエスの活動期間は数年で、信者も数百人程度だったという。
このことを境に、ユダヤ教とキリスト教は仲が悪くなってしまう。もっとも、イエスが生きていた当時キリスト教というのは存在しておらず、イエスの死後に「イエスは、実は人ではなくキリストだったんじゃないか」と言うユダヤ人が現れ、
キリスト:ヘブライ語で救世主メシアのギリシャ語訳のこと
そうしてイエスの死後、イエスが復活し昇天したという逸話から、イエスは神の子、メシアであったという信仰が起こりキリスト教が誕生する。
イエスには数々の逸話が残されていて、その真意はわからないが、人間であった頃のナザレのイエスが、刷新活動を行っているときには奴隷や女性、身分の低いものにも手を差し伸べ、愛に満ちた行動をしていたという。
しかし、ユダヤ教の考えを引き継ぐキリスト教において、人間でありユダヤ教の一教師にすぎないイエスが【神の子】であることを認められるわけもなく、キリスト教は民族宗教であるユダヤ教と袂を分かつことになる。
そのため、ユダヤ教の旧約聖書はヘブライ語であるユダヤ民族の言葉で書かれているが、キリスト教の新約聖書では当時の国際語であるギリシャ語で書かれている。また、キリスト教の経典は新約聖書と旧約聖書の両方である。
イスラム教
イスラム教は、アラビア半島でムハンマドがキリスト教の天使ガブリエルから啓示を受けて、新たに宗教運動を起こすことで始まる。ヨーロッパで拡大してヨーロッパ化したキリスト教を、本来の出身地である中東風に戻したものと変化する。
そのため、イスラム教はユダヤ教に似ており、戒律主義になった。それらは、唯一神アッラーがムハンマドに天啓として与えた教え【コーラン】に記されているという。
ムハンマドはキリスト教の天使ガブリエルから天啓を受けているため、コーランの神にかかわる基本教義の内容はキリスト教と同じで、コーランには新・旧約聖書の一部も含まれている。
主な違いは、理解の仕方や強調点にあり、それ以外は当時の中東アラブの生活習慣に基ずく戒律が多く含まれている。
それではなぜイスラム教とキリスト教が仲が悪くなるのか。
それは、ユダヤ教と同じく、イスラム教において唯一無二の絶対・永遠の天地の創造主であるアッラーを絶対神としているので、キリスト教での【神の子イエス】を認めることはできないためだ。
イスラム教のムハンマドは神の啓示を受ける預言者であり、人間である。イスラム教において、ムハンマドに先行する最も偉大なものとして、アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、イエスの五人が挙げられる。イエス以前の四人は預言者で、イエスも預言者なのである。
決してイエスは神などではなく、ただの人間なのである。
しかし、キリスト教においてもユダヤ教の流れを汲んでいるので偶像崇拝は禁止されている。そのため、教会にキリストの像があったとしても、キリスト教は偶像崇拝はしていないと主張する。
なぜなら、神とイエスと精霊の三者はそれぞれ別の位格を持つが、実体としては一体である。という三位一体説をとるためだ。
イエスは「神でもあり人でもある」とされ、神性と人性の関係は「混ざらず、離れず」という。イエスは神が人間の姿をとっているのであり、聖像は許される。ただし、聖像そのものは神ではないので、あくまでも聖像を通じて神を崇拝するのである。
ゆえに【偶像崇拝】でないのである。
Wbasic的解釈
厳しい環境の中でユダヤ教は生まれ、ユダヤ教の教師であったイエスには、他のユダヤ教の人々とは違うヤハウェ神の姿が見えており、その活動のために磔の刑にされ命を落とした。
しかし、イエスに触れた人々は彼を救世主だと信じ、キリスト教が誕生する。ユダヤ教の戒律主義において偶像崇拝は固く禁じられていたため、のちにキリスト教の中で天啓を受けたムハンマドはイスラム教を誕生させる。
わたしたちは、同じものをみて、同じと感じることで連帯感が生まれ協力が可能になる。そのため、見えているものが同じであることは非常に重要なことである。これは国家や宗教においても同じで、一つの方向に向かわせるための原動力になる。
しかし、イエスのように同じものを見ているはずが、他のものにおいては違うものに映ることもある。ユダヤ教からキリスト教へ、キリスト教からイスラム教へと、一つの神が変貌したのではなく、ただ同じ神が違って見えているだけの可能性があるのだ。
宗教において聖典は、人を導くために絶対でなければならない。この世で迷っている人々を救済するためには真理は一つであることが好ましい。それは、聖典の内容が多様にあると同じ方向に導けないためだ。
たとえば、教会で多くの人が同じタイミングで神の姿を見たとする。皆が一様に神に祈りを捧げるだろう。しかし、その同時に見たという人々に、個別に神の姿をどのようなものだったかを聞いてみる。すると、一部の人においては同じでも多くの人においては姿や形が異なっていることもあるだろう。
しかし誰もそれを追求することはない。なぜなら均衡が崩れ、崩壊するおそれがあることを誰もが知っているためだ。
わたしたちは、わたしたちの世界のなかで生きている。同じ世界に生きているからといって、同じものを見ているとは限らないのだ。それはある意味、不幸であり、幸福でもある。
あなたの愛する人があなたと同様に愛していないとしても、互いの解釈によって愛し合っているという幻想で関係が良好に進むからだ。しかし、それとは逆に全くおなじものを見ているにもかかわらず、同じではないと主張することで違いを生み出そうとする人間もいる。
彼らは原文の解釈を変化させることで、自分の都合の良いようにシステムを切り替えようとする。一部の彼らにおいては、コミニティの調和よりも個人の利益が天秤では重いので重要なのだ。
つまり、わたしたちは常に何かに注意をして生きなければならない。それは、ささいな変化のように思える。しかし、それらは大きな変化の兆しであり、警告の点滅でもある。
幸福とは、自分において絶妙なバランスを保った状態のことをいう。そのため、同条件を維持し続けることは簡単ではない。平穏な日常は日々の小さな努力の結晶だともいえる。
いずれ訪れる日に向けてわたしたちは小さな努力を続けたいものです。
おわり
参考文献「なぜ私たちは未来をこれほど不安に感じるのか? 松村嘉浩著」
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no.68 2021.5.28
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