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サッカーファンなら知っておきたいボスマン判決

はじめに

 「ボスマン判決」とは、1995年の12月15日に欧州司法裁判所から出された判決のことで、その後の欧州サッカー界に多大な影響を与えるきっかけなので、サッカーファンなら是非とも押さえておきたい
 物語の中心はベルギー・リエージュ生まれのサッカー選手、ジャン・マルク・ボスマン(1964〜)。ユース時代は代表にも選ばれた選手だったが、当時の移籍制度により不遇のキャリアを歩むことになっていく。

全体像

ボスマン判決_1:4

 まず判決の結果、2つの自由が欧州サッカー界に認められたのだが、一つが「移籍の自由」。前所属クラブとの契約が満了した選手は、EU域内の他クラブへの移籍が自由になった。それ以前は契約満了後の選手に対しても、前所属クラブは所有権を主張することができ、つまり所属クラブの同意なしに満了後の選手は移籍できなかった。
 もう一つが「外国人枠の撤廃」だ。それまでは欧州各国リーグで、契約できる外国人選手に制限があった。UEFA主催の大会についても条件付きで最大5人までとされていた(「3+2ルール」と呼ばれる)。この制限がEUの定める「労働の自由」に反するとして、撤廃が義務付けられた。
 これら2つの自由化によって、欧州移籍マーケットは流動化・活性化していく。

無所属を強いられたボスマン

ボスマン判決_2:4

 事の発端は契約満了後のボスマンの移籍を、前所属クラブのRFCリエージュが認めなかったことだった。1990年6月に契約満了を迎えたボスマンに対して、クラブは財政難もあって、リーグが定める最低賃金での契約更改を提示した。これに不満を感じたボスマンは、自ら当時フランス2部のFCダンケルクとの移籍話をまとめ、移籍を画策した。
 ところがリエージュはこの移籍に同意しない。理由としては、ダンケルクの支払い能力が疑わしかったからだ。ボスマンとダンケルクとの契約は1年間のレンタルと買取りオプション付きであり、リエージュへの支払いが必要だった。この支払いが履行されない可能性を考慮し、リエージュが移籍に同意しなかったため、ボスマンは強制的に無所属になった

移籍を求めてクラブに勝訴したのだが…

 1990年8月、所属が宙に浮いたボスマンは自身の所有権放棄を求め、リエージュとベルギーサッカー協会を相手に裁判を起こした。裁判の結果、同年11月に全面勝訴となり、移籍金なしでの他クラブへの移籍が可能となった。契約満了から約半年経過していたが、正式に当時フランス2部のオランピーク・サン・ケチンに移籍が成立した。
 しかし、翌年5月までプレーしたものの、その後の彼と契約するクラブは現れなかった。協会とクラブ相手に訴訟を起こしたボスマンは、クラブにとって腫れ物だったのだ。当時27歳だったボスマンは再び失業状態に陥り、ベルギー3部、4部のアマチュアクラブを転々とするキャリアを歩むことになる。

弁護士デュポンの提案

ボスマン判決_3:4

 そんな不遇のボスマンに目をつけたのが弁護士ジャン・ルイ・デュポンだった。1988年に法学部を卒業したばかりの彼は、ボスマンに対してベルギーサッカー協会とUEFAを相手に訴訟を起こすことを提案する。その内容は、当時の移籍制度の違法性を訴えるものだった。
 契約満了後の選手の移籍に対しても、前所属クラブの同意が必要な当時の制度は、EU法の定める「労働の自由」に反するため、移籍は認められるべきだ、というのがデュポンの主張だった。
 ちなみにこの法的根拠は、1957年のローマ条約と、その改訂版である1993年のマーストリヒト条約である。それらの中で「EU域内における公正な競争と労働者の移動の自由」が認められており、これが主張の根拠だった。

巻き添えになった外国人枠

 この一連の騒動の大きなポイントは、1995年9月に欧州司法裁判所のカール・オットー・リンツ主席法務官が報告書の中で、「自由な移籍」と併せて「外国人枠」も問題視されたことだった。この報告書の中では、まずローマ条約に基づき移籍の自由は認められるべきと結論づけられていた。
 しかしこれに留まらず、外国人枠についても触れれられていた。EUの労働規約では「域内のおける移動と就労を制限してはならない」と定められているが、各国リーグが外国人枠を設定し国籍の制限をかけているのは違法であると指摘した。つまり結論としては、EU域内においてはEU加盟国国籍保持者に対する「外国人枠」は撤廃されるべき、というものだった。

UEFA懇願虚しく、ボスマン全面勝訴

 この「リンツ報告書」を受けて、1995年11月9日、UEFAは加盟49協会会長の連盟で公開書簡を発表した。内容は「現行制度が違法だと判断されれば、欧州サッカー界は壊滅的な打撃を受ける」といった懇願のようなものだった。
 UEFAの主張の中には「ひと握りのビッククラブが中小クラブに何の対価を支払うことなく選手を奪うことが可能になる制度を受け入れることはできない」という危機感も示されていた。
 そうした懇願も虚しく、同年12月15日、欧州司法裁判所はボスマン側の全面勝訴の判決を下した。併せてこの判決は即座に実効性を持つもので、迅速な対応がUEFAには求められた。

2つの自由化で動く欧州サッカー界

ボスマン判決_4:4

 改めて、「ボスマン判決」で2つの自由が認められ、一つは「契約満了後の移籍の自由」、もう一つが「外国人枠の撤廃」。
 移籍の自由によって、クラブは選手を引き留めることが困難になった。これを機に複数年契約による選手の確保や、契約満了前に移籍金目的での放出などがクラブとしての選択肢としてあがってきた。
 とはいえ資金力の乏しいクラブにとっては選手の確保は困難で、ビッグクラブの草刈り場となっていくことが増えていく。顕著な例はアヤックスで、1995年にヨーロッパを制したメンバー(ダーヴィッツやセードルフ)が、この判決後から引き抜かれていき、1999年の夏には一人も残っていなかった。UEFAの危機感が現実になっていった
 また、外国人枠の撤廃によって、レアル・マドリードのような多国籍のスター軍団が可能になった。各国のスターチームから、EUのスターチームへと変化していく。同時に自国内でチャンスがなかった選手が他国に飛び出しやすくなったなど、戦いの場が拡大していった。

おわりに

 以上がボスマン判決の一部始終である。「ボスマン判決」とは1995年12月15日に下された判決のことで、本記事でいうと移籍制度に対する訴訟②を指すので注意。ただその前のクラブに対する訴訟から続いているため、一連の流れとして記述した。
 サッカーのビジネス化が過熱し、2億円を超える移籍も現実となっている。ますますビッグクラブと中小クラブの格差が広がっているきっかけとなったボスマン判決は、今のサッカー界を理解する上で重要な出来事である。
 とはいえ、ボスマン判決が今のサッカー界の流れに直結する原因だ、とするのはあまりにも乱暴だ。最近話題のFFP制度など、UEFAは格差をコントロールするため様々な対策を打ってきた。あくまでも一つの出来事なので、これが歴史を掘り下げるきっかけになっていれば、嬉しい限りだ。

参考文献


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