見出し画像

書評「読むことの問題が山積みになる本」(高橋源一郎『「読む」って、どんなこと?』2020,NHK出版)

はじめに

 「読む」ことへの疑問の持ち方を教えてくれる本で、読み終わっても本が読めるようになった気はしない。問題は山積みのままだ。でも読後にそんなモヤモヤを求めて本を読んでいる人も実は多いのではないだろうか。

「読めない」文章と出会う

 著者は1982年に『さよならギャングたち』で小説家デビューした高橋源一郎。彼が選んだ文章を「読む」ことで、「読めない」体験を私たちに与えてくる。

ところが、です。こうやって学校で(ということは、社会で)、「読む」ということを習ってくると、おかしなことが起こるのです。簡単にいうと、「読めない」ものが出てくるのです。(pp.24-25)

 学校で習う15個の読み方を復習した上で、その読み方では「読めない」文章が次々に繰り出される。「1891-1944」とだけ書かれた文章や、オノ・ヨーコの「地球が回る音を聴きなさい」などの文章は、程よい混乱をもたらしてくれる。

「いい文章」は問題が山積み

 普通、文章は誰かに何かを伝えるために書かれ、読んだ人に何かが分かる感覚を与える。しかし筆者の考える「いい文章」は異なる。

たくさん問題を産み出せば産み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ、「いい文章だ」、ということです。つまり、その文章は、問題山積みのために、それを読む読者をずっと考えつづけさせてくれることができるのです。(p.64)

 一般に考えられている「いい文章」、たとえば論理的であったりドキドキするお話は、読者をほとんど変えないと筆者は考える。他方で問題山積みの文章は私たちに考えることを強制してくる。それゆえ読者を変える力を持っていて、それこそが「いい文章」だと述べられている。
 さらに「学校で教える文章には、そういうものは、ほとんど出てこない」と続ける。なぜなら「いい文章」を読んだ生徒は変わってしまい、教室の外に出て新しい何かを探し続けるからだ。小学校の国語の教科書がつまらなく感じたのもそのためかもしれない。

「読めない」ことに向き合う

 文章を「読む」ことを考える時にいつも思い出すのが、山田悠介の『ドアD』だ。読んだのは10年ほど前だが、未だに思い出す。

夢…?そうでなければおかしいこの風景。
だが違う。夢がこんなハッキリしているはずはない。これは現実だ。
コンクリートで作られた正方形の部屋。広さは十帖ほどか。どこにも窓がないため、朝なのか夜なのか全く分からない。
部屋の端っこには照明のスイッチだろうか?赤いボタンが設置されている。その横には、拳がすっぽりと入るくらいの穴。その正反対の壁には鉄の扉。ただそれだけ。
(引用元:山田悠介(2007)『ドアD』No.202)

 1度目読んだ時は何も思わなかったのだが、2度目にはっと気づいた、「これは夢の話だ」と。こんな部屋は現実に存在するはずがない。光源が無く真っ暗なはずなのに鮮明に見えるはずはないからだ。ちなみに目が覚めた後の描写なので入り口は開いていない。
 私たちは文章を「読む」時、色眼鏡、つまりバイアスがかかっている。脳が優れているからなのか、はたまたエラーなのかわからないが、時には上のような文章を読んで架空の現実を脳内で作り上げてしまう
 本は私たちにこれまで見えていなかったものを見せてくれる。しかし私たちは見えていないはずのものを、まるで元々見えていたものとして受け入れてしまうことがある。つまり自然と「読めない」文章を「読めた」ことにしてしまう。読めない自分に気づくことは難しいのだ。

おわりに

 私たちは普段文章に触れているが、「読めない」と感じることは難しい。そんな「読めない」感覚を読者に与え、「読む」ことの問題を山積みにして、筆者は去っていく。そんな迷惑な一冊。


いつもありがとうございます。サポート頂いた資金は書籍代に充て、購入した書籍は書評で紹介させていただきます。