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25年前のアフリカ大陸縦断①ヒッチハイク編


レストランで食事するのに友人を待っていると

後ろのテーブルから男女3人の会話が聞こえてきた。


「〇〇ちゃん、すごいねえ。アフリカ行ったんだって?」

「ええ、もう大変でしたよ。」

「よくそんな所に行く勇気あるね。すごいよ。」

「結構友達とバックパッカーで色々行ってるんで。」

「へえ。大変だった話とかないの?」

「砂漠がめっちゃ大変で。。。」



(おお、それはやっぱりサハラ砂漠の方かな?)


かれこれ25年前、アフリカ大陸をトラックで縦断した自分としてはその話には興味があった。

縦断で25カ国入国して、砂漠は北のサハラ砂漠と南のナミビア砂漠の両方を訪れたが、アフリカ大陸全体としても2度と行きたくないと思うのがサハラ砂漠であったからである。


「何が大変だったの?」


(やっぱ熱風とハエだよね。あ、地雷と蠍かな?)


女性の答えはそんな自分の期待を大きく裏切った。


「何が大変って、電波が届かなて〜〜〜〜!!!」


(。。。。。)


全くの予想外だった。


自分が訪れた25年前は日本にガラケーが出回った頃ではあるが、もちろん海外で使える状態ではなかった。

一緒に縦断していたイギリス人にemailという存在を初めて教えられてちんぷんかんぷんだったぐらいの時代である。


ガイドブックも地球の歩き方が発行されていたのはモロッコとケニア、タンザニアぐらいしかなかった。


Lonely planetという海外の分厚いガイドブックを縦断中の国で購入して毎日トラックに揺られながら英語と睨めっこして英語力がついた。


旅で一番大変だったことが「電波が届かないこと」と聞いて、ある意味その女性を気の毒に思った。

電波が届かないことが当たり前の時代に旅していれば、いろんな想定外を楽しめたからである。


例えば、私が体験した想定外の出来事の一つがヒッチハイクである。

アフリカ縦断の旅はイギリスの旅行会社が主催しており、20人弱のほぼ英語圏の国の人たちと一緒に7ヶ月半かけて一台のトラックで毎日テント生活しながら移動するというものだった。


縦断するのに日本人でも入国ビザを必要とする国は何カ国かあった。

いろんな国籍の人が参加しているので、旅行会社からあらかじめ国籍別に入国ビザが必要な国のリストをもらっていた。


今では検索すれば瞬時に確認できるが、当時21歳の私は確認することなくそのリストを信じ切っていた。


日本を出発するまでに必要な入国ビザは取得しておいたが、マラウイという国に入国する際に事件は起きた。

前年に法律が改正されて日本人に対して入国ビザを必要とすることになっていたのだった。


もちろん自分はそんなことを知る由もなく、手前の国のタンザニアで現地通貨を使い果たし、マラウイに入国しようとするとそこで告げられた。


最初は役人が小遣い欲しさに難癖をつけてごねているだけかと思ったが、毅然とした態度で賄賂も通じず、法律が変わったの一点張りで、とうとうタンザニアに戻ってビザを取りにいかなければならなくなった。


日本人は自分一人のため、他のメンバーは予定通り先に進むことになった。

現地の通貨も使い果たしているため両替できる街まではヒッチハイクしてなんとかタンザニアの大使館にたどり着いた。


大使館に着いたのは金曜日の16:45だった。

日本であれば他に客はいないし、閉館は17時なのだからすぐにビザを発給してくれそうだが、タンザニアではそうはいかなかった。


「もう閉まるから月曜日に来てくれ。」

「いやいやいやいや、まだ15分もあるではないか。

どうしても今日欲しいんです。お願いします。」

「いや、もう閉まるから。」

事務員の女性に冷たくあしらわれた。


今日ビザを発給してもらえなければ土日を無駄にタンザニアで過ごすことになる。

金も時間も勿体無いから、どうしても発給してほしい。

泣いて懇願したが事務所から締め出された。


精神的にも体力的にも辛い過酷なこともあった旅だが、泣いたのはこの時ぐらいである。


仕方なくその土日は安宿でを過ごした。

狭い部屋に人の重みで人型に凹んだマットレスが置いてあった。

(ベッドって使いすぎると最終的にこんなふうになるんだな、一体何人がここで寝たんだろうか。。。)
そんなことを考えながらその窪みにすっぽりと収まって眠った。


毎日テントを張り、針金2本で布を支えた簡易ベッドの上に寝袋を敷いて寝ていたから、屋根や壁のある建物で寝るだけでもありがたいことだった。


月曜の朝一でビザを発給してもらい、バスやヒッチハイクを乗り継いでツアーのトラックを追いかけた。


ところがアフリカのヒッチハイクは一筋縄ではいかない。

なぜならみんな優しいので快く載せてくれるが車が必ず途中で故障するからである。

もちろんJAFのような駆けつけ修理はない。
ドライバーが自分で車をいじり始める。

修理が終わる目処は立たない。

「今から修理するからこのバナナ食べて待ってて。好きなだけ食べていいよ。」

フサではなく茎ごとの大量のバナナが運転席に置かれていた。

当然お腹が空いているので一本、二本と食べ始めるが、一向に修理が終わる気配がない。

先を急いでいる身としては大変申し訳ないが腹一杯になると別のトラックに乗り継ぐしかなかった。


鶏や豚を乗せたトラックの荷台に乗せてもらったりもした。


今思えば全てが貴重な体験である。

本当に現地の人と触れ合えた気がする。


困ったことがあっても何とかなるし、何が起きても動じない精神はここで培われたのかもしれない。


まあこんなふうに想定外のことは長い旅で色々あった。


そんな体験をした私が思うサハラ砂漠の大変さは、「熱風とハエ」であった。

猛暑の中で顔の前にエアコンの室外機がずっと動いていることを想像して欲しい。

サハラ砂漠では逃げ場がなくずっとそんな状態である。

そして一瞬風が止まることがある。

その瞬間にハエが顔や身体に止まる。


「ハエをとるか熱風をとるか」

ずっとそんなことが頭の中を巡っている。

夜には蠍が顔を出すらしい。

テントを突き破ってくる恐怖と闘いながら眠りにつく。

トラックの移動は護衛団に先導してもらう。

そこらじゅうに地雷が埋まっているからトイレに行きたい時はトラックを降りてその陰で用を足す。

そのころの大便は緑色だった。


電波が届かないことを嘆いたさっきの女性は恐らく自分が通過した国々ではなく、街から車で気軽に行けるロッジに宿泊したのだろう。


だがサハラ砂漠は今も熱風が絶え間なく吹き続けていることだろう。

もし電波が届いたとしても絶え間なく吹く砂でスマホがやられると思うが、どうなんだろうか。。。


あの体験は今も鮮明に覚えているから、当時SNSで発信できなくても、こうして月日が経った今、文章で伝えることができる。


そして本を出版しなくても気軽に記事を書いて投稿して伝えることができるようになったこの時代にも感謝している。

ありがとう。

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