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もしも明日死ぬとして

ありきたりなテーマ。ありきたりな文章。

きっとnoteのサイトではこの程度の文章など、他の文才に長けた方の文章に埋もれるだろう。

それでも書いておかなきゃ。

もしも、明日で死んでしまうとしたら、24年の人生の最期の今日はどんな日にするだろう。

できることなら、仲良くしてくれた友達や、

お世話になった先輩方、学生時代の恩師の先生方、

剣道の道場で剣を教えてくれた先生方に、

拙い(つたない)直筆で手紙を書いて、直接手渡したい。

体質的にペンを握ると手が震えるので、最期の別れの文字を書くのが下手なのが口惜しい。

友人たちは最期の日の僕のことをどう思うだろうか。

悲しんでくれるだろうか。

やっとか、せいせいした。と言われるだろうか。

仮に、葬儀を開いたらどれくらいの人が参列してくれるだろう。

参列してくれる人数より、あの人は来てるかな?ってことが上から見てて気になるんだろうな。

そもそも、どんな死に様なのだろう。

これまでの生き様より、死に様の方が遺るんだろうか。

息を引き取ったその瞬間、僕は何を、誰を思うのだろう。

家族のことかな。
友達のことかな。
好きだった人のことかな。

病気で逝くなら仕方ないだろうけど、

自ら命を絶ったら、家族はやり切れない思いと哀しみで堪らないと思う。

散々迷惑をかけてきてしまったけど、それでもやっぱり同じ血の通った家族だから。

どれだけの人が僕のために貴重な涙を流してくれるだろう。

できることなら未練だらけの今生に、

誰かの心の中で遺り続けたい。

これはエゴかな。傲慢かな。許してくれるかな。

誰一人、許してはくれないだろうな。

誰かが悔やんでくれるような生き方をできただろうか。

生きることと、死ぬことばかりを最近は考えていたな。

何も立派な功績なんて残しちゃいないけれど、

24年間はここに居た証は何か残したい。

人生の後半は本当に毎日を生き延びることに必死だった。

死してなお、良い奴止まりかな。

家族には一生の後悔を背負わせてしまうだろうな。

母が僕の後を追わないでくれることだけを願う。

僕がいなくなっても、姉ちゃんがおるけん姉ちゃんのことを守ってあげてほしいな。

父ちゃんはどう思うだろう。

泣いてくれるかな。

この文章は全部、「もしもの話」です。


恐らく、明日の朝目が覚めたら、またいつものようにのんびり朝ごはんを食べて、夜には約束通り居酒屋のバイトの助っ人に行って、明日以降も生きると思うよ。

写真の花は「ワスレナグサ」

花言葉は「どうか私のことを忘れないで」

ひろき





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