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「明日世界が滅亡しようとも、私はリンゴの木を植える」…のだろうか?

例の私とTwitterで知り合えた若い女性との宿題も、これで終わりになってしまいます。

…次の宿題を果たしてもらえるのでしょうか?笑
今回は宿題の中で、私が一番考えたテーマになります。

元々英語訳を考えた上で検討しなければいけなかったので、解釈が複雑に入り混じった形になって迷宮に入りました…。

ただ、その迷宮をなんとか抜け出そうと様々な解釈を整理して言った結果、自分なりにまとめることができたので、こちらでご報告させていただきます。

「この言葉はルターの言葉ではない」とか、「ルターはドイツ人だ(なぜ英訳)」みたいなところもありますが、この辺は今回は深く突っ込みません。

それにしても、Twitterの出会いは不思議ですね(^^;)

今回の話のポイント

▼ 『時間軸』から考える『リンゴ』と『行為』について

「明日世界が滅亡しようとも、私はりんごの木を植える」

さて、この言葉の意味をどう考えるでしょうか?まぁネットを探せば色んな解釈が出てきますので、そこまであえて触れません。

まずこの「リンゴを植える」という行為について。

「リンゴ」にスポットを当てるのか、「行為」にスポットを当てるのかによって解釈は変わってきそうなんですよね。

まず「未来が完全に滅びる」という前提で物事を考えるのであるならば、「リンゴ」にそれほど意味というものを感じません。

なぜならリンゴの木を植えてリンゴの果実がなるには「時間」が必要です。

ただ、未来が完全に滅びてしまうのであれば、「リンゴという果実」を私も私以外も未来において誰も得ることが出来なくなってしまいます。

そこを考えると、この文章で伝えたいのは「リンゴ」というところにスポットを当てるのではなく、「行為」にスポットを当てることになります。

「リンゴの木を植える」という行為です。

メッセージ性として私は「損得ではなく、生産的な行動をしようよ」というメッセージを感じました。

これは結果的に「メリットは他者ではなく、自分にある」という様な認識をしています。

一方であくまで英文法的に「仮定法」という仮の話をしていると考えると、今度は「行為」というよりかは、「リンゴ」にスポットが当たるようなことになります。

…世界、滅びませんからね 笑

一番スタンダードに捉えやすい「自分以外の人のために、未来の誰かのためにリンゴの木を植えてリンゴの果実を実らせようよ」という様なニュアンスになるのではないでしょうか?

いろいろ考えましたが、おそらくこの解釈が普通の人が一番するのではないかなと感じています。

ただ、これも「時間軸の有無」を考えたときには、別の意味を持つのではないかというのが私の捉え方です。

▼ 「誰か」なのか「自分」なのかについて考える

今度は「人物」について、もう少しスポットを当ててみたいというふうに思います。

これは「世界が今後滅びるのかどうかという『時間軸』はあまり関係ない」と考えるところがスタートです。

「誰か」に対してメリットがあるように行動すると考えるのであれば、この文章からは「未来のために自分にできることをしようよ、今できることをしようよ、それは世界を滅びるとか関係ないよね」という様なメッセージになるのではないかなと思います。

一方で「自分」にスポットを当てると「生産的な行動そのものが自分に喜びを与える」いう様な解釈を私はすることになりました。

結果的にその行為が「生産的」であれば、それは「自分の存在価値を自分で認める」ということに繋がるというような捉え方をしています。

ですので、これは未来があろうがなかろうがという「時間軸」ではなく、その場限りの一瞬一瞬の行為で「生産的な行動をする」ことそのものが結果的に自分に喜びを与える…というニュアンスで考えています。

▼ その行為は「反復」なのか「一時的」なのか?

英文訳を見ると。ここが一番気になったところではあるのですが、その「リンゴの木を植える」という行為が、「世界が滅亡すると決まったから行われた」のであるのか、「世界が滅亡するとかそんなの関係なく普段からやっているのか」という捉え方も出来るのではないかと考えました。

反復行為ではなく、これが「世界が滅亡すると分かって」もしくは「何か一時的に思い立って」などのニュアンスが変われば、「何か誰かのためにすることは大事である」という意味合いが強くなります。

これは結果的に「相手」がいて、「相手のために何かをしよう」というごくごく一般的な解釈に近い部分になるように感じます。

一方で、この行為が「普段から行われている反復的な行為」であるということであるならば、もちろん「他人のため」というニュアンスも出てきますが「今まで通りのことをする大切さ、自分の信念」と言うメッセージが強く出る様に感じます。

「世界が滅びようとも、いつも通りのことをやる」

結局、リンゴを植え続けてきたという行為は「誰かのために」というカタチで過去から現在までに続けてられてきたものかどうかというのは分かりませんが、結果的には「自分の信念」というものに対して変わらずに心穏やかに対応するというニュアンスが強くなるように感じます。

このように視点を変えるとなかなか様々な解釈が出来るので、私は個人的には「どれがいいのかな…」と考えました。

メッセージとしては「反復でやり続けてきた行為を今日もやろう。そして今、できることを一生懸命やったら、結果として自分のためになるよ」といったニュアンスなのかなと言う印象を受けています。

※あくまでも個人的な見解です。

何かのきっかけで「未来に生きる人々に希望を与える」という高尚な目標を持つことも大事ですけれども、「これまでのしてきたことを明日もやる。今までと変わらない生き方をする」という信念のほうが私にとってはしっくりきているような気がします。

▼ 「見返り」や「成果」を期待せずに「将来の希望」を育てることは可能なのか?


前述の通り、私は「その行為自体の喜び」というものを重きを置いて考えていることが多かったので、結果的にその行為が「他人」ではなく「自分」に対してメリットを与えているという考え方になります。

一言で言うと数年後のリンゴなんて知ったこっちゃない(自分でコントロールできない)という考えですかね。

何かの「目的」より「行為」の方が優位にあるという捉え方です。

それを仮に「リンゴ」と言う目的、いわば「自分と他者の将来の希望」という「果実」をメインに考えると、「メリットがあるから継続が出来る、メリットが無いなら継続が出来ない」という様な見方になってしまいます。

ちょっと違うかな?というのが私の見解です。

ただ、その「行為」自体に自分が喜びを感じているのであれば、行為の継続は可能であるのかなと考えています。

ですので、「目的」という形ではなくて「行為」の結果がたまたまその様にうになるという捉え方が良いのではないかなーと感じています。

そしてさらに言うと、「自分の行為自体が結果的に誰かのメリットにならなかった」としても、この場合は「別に構わないのではないかな」と解釈しています。

やらない善よりやる偽善、その行為がたとえ相手の為にならなくても

みたいな感じですかね~。

▼ 見返りを得ること自体が悪なのか

人間の行為は「見返りが基本的にある」という前提で皆さん考えることが多いと思います。

ですが、このルターの文章を考察して行く中で、その「見返り」というものが「結果的」に得られるものなのか、「能動的」に得られるものなのかという違いで始まり、いろいろ考えるところとなりました。

繰り返しになりますけれども、私はこの文章の解釈を「行為から得られる喜び」=「見返り」として捉えていますので、この「感情」を「見返り」と捉えるのであるならば「得ること自体が『悪』なのかどうか」ということについてはあまり感じなかった次第です。

一般的な「誰かのためにリンゴを植えて、それを純粋な善意で行っている」という見方とは少し違うのですけれども、「リンゴ植えてやったんだから何かをよこせよ」という形になりがちな現代において、「そうではないんだよ」ということを教えてくれている様に、私は感じました。

あくまでもその「行為」自体が「自分自身を奮い立たせるもの」であって、その行為をした「結果」についてはそれほど重きを置いていないのではないかなと考えています。

「行為」をした時点で手にしてしまうモノ=「見返り」

まぁここも「仮定法」で世界が滅びるという継続性を絶った上で記載をしている理由がそういったところにあるのではないかという風に考えた結果です。

▼ さいごに

これでもかなり内容を削りました。それぐらい出して頂いた宿題は難しいもので、考えるのがとても楽しかったわけです。

Twitterでの出会いは、私の場合は「病気の罹患者」という方が非常に多いのは事実ですが、みんな前向きに(もしかしたら、ちょっと無理をしてるかもしれないけど)生きているんだなということを改めて思います。

無理をすることが善とも思いませんが、ちょっとぐらい無理できる時に無理をしないと、いずれ無理ができなくなるんだなと改めて思ったりもします。

出会いと考える時間をくれた彼女に感謝します。
…元気になって、お酒飲みに行きましょうね?笑

個人ブログも更新しましたので、よろしければ。
今回は『メンタル』のカテゴリーです。

負担のない程度に更新を目指してこれからも日々頑張っていこうかと考えています。

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