~3度目の再発を受けて~
再発を迎えた今の感情は、正直なところ怖いくらいに淡々としている。
…なんだろうか?
もっと感情的になったり、絶望したり、悲観したりとそんな感覚が大きいのではないかと思っていたが、気持ちが悪いほど達観している。
一番感情が辛かったのは、どうやら1度目の再発の時であると記憶している。それが場数をこなすにつれて、自分の病気のしぶとさから一種の『慣れ』の様なものを自分の中に確立させてしまったのだろう。
「辛い」「悲しい」といった感情は必ずあるはずなのに、今の自分に探しても見当たらないのがとても怖い。
▼ 矛盾
私はいくつかの矛盾を抱えている。今回リンパ腫の再発が見つかったのは私の具申のためである。
9月1日にPET検査を行ない「異常なし」と言われていた私の体に、本当に小さな違和感を持った。そして皮膚生検を行ってもらい、リンパ腫の再発が確認されている。
その他諸々の検査でも見つからない、いや小さすぎて見つけられないそんな病巣を素人の私が見つけてしまったのである。
…事実を知らなければ幸せだったのだろうか?そんなことばかり思う。
思い起こせば私のリンパ腫は病院で見つかったのではなく、違和感から四度に渡り全て自分で見つけている。普通の人が気づかないようなレベルも含めてである。
もちろん「早期に見つかって良かった」という一般的な解釈もあるだろうが、結局見つかっても治っていない現実がある。
それならば「知らず知らずのうちに治ってしまう」様な奇跡の力を借りたいなんてことも思う。
人間の体には日々がん細胞というものは存在しては消えるを繰り返しており、知らない間に治っているということも理論上往々にしてあるわけだ。
日々自分の体をチェックし、小さな変化に不安を覚え、こうして再発を診断されて未来をどう捉えていいかわからなくなる。
…この状況は果たして幸せなのだろうか?早期に見つかってよかったのだろうか?並の検査でみつからない初期段階の再発だとしても…。
また何度か書いているが、私は悪性リンパ腫の痛みというものを感じたことがない。
過去に転移している箇所が直接何か体に不調を訴えているということがなかったというのは事実であり、私を苦しめたのは治療と治療の副作用である。
人にもよるが、激しく副作用が出た際は「死の方が楽ではないか」と思う様なこともあるのだと感じる。
治すために治療し、その治療によって殺されるという矛盾が現実的にあるわけだ。
再発の際に頭をよぎったこととして「もう治療には耐えれないだろう」となったのも正直頷ける。
医師からも「もう耐えれないだろう」と正式に伝えられたので、その感覚は間違っていない様だ。
▼ 寛解という恐怖の始まり
『寛解』という喜ばしいと一般的に評価される状態について、『新たな再発の恐怖への始まり』と視点を変えることも出来る。
完治という状態がない病気であるからこそ、常に再発の恐怖不安といったものに苛まれる。
いわば喜びの一歩は悲しみへの一歩でもあり、いったいその輪廻天生をいつまで続けていかなければいけないのだろうか…。
何のために定期的に病院へ行き、医者に結果を聞いた上で一喜一憂をするのだろうか。それを一体いつまで続けなければいけないのだろうか。
その様な状況から「再発」と宣告されることは、その輪廻からいわば脱することに繋がるわけである。
人間が「必ず死ぬ」という状況からすれば、このサイクルに悩まされるというのは少し滑稽の様にすら思えてしまう。
『喜ばしい状況』と『新しい不安』が生まれるこの二律背反を、私以外の人は一体どのように捉えているのだろうか?
ここまでくると『死に様を整える』か『あがいてでも生きるか』のどちらを選ぼうかという考えが平気で頭の中に出てくる。
『生きたい』のは間違いないが、そのために『どこまで苦しみを許容できるのか』については、今の私には想像がつかない。
病気と向き合う覚悟が必要ならいくらでもする。ただ、その覚悟がどこまで続くのかは、正直今の自分には分からない。
▼ さいごに
誰かに読んでもらえるような文面にするのに、今回は少し時間が掛かった。折り合いをつけているはずなのに、何か違和感がある。
ただ文章を書いているだけと言えばそれまでだが、何か自分自身を保つためのパズルのピースの様に思えてならない。
不思議な感覚である。
個人ブログも更新しましたので、よろしければ。
今回は『組織・ビジネス』のカテゴリーです。
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