昭和のとある田舎の暮らし 〜実家あれこれ〜

 前回祖母のことを書き始めた時は、もしかしたら何かが憑依してたんじゃないかと今になって思えるくらい、恐ろしく集中してPCに向かっていた。

 今も色々なエピソードが浮かぶのだけれど、さあ文を書きましょうとなると、「文字にするぞ」という気力が続かない。これは存外エネルギーと纏まった時間の要る作業だぞ、ちょっと大変なこと始めちゃったんじゃないのと自分に突っ込んでいるところ。

 さて実家である。祖母の嫁ぎ先であり、母の嫁ぎ先であり、父の生家であり、我が子が小六まで田舎暮らしを満喫したところである。県道から山の方へゆるゆると上る道の脇は、今では農協の管理する田んぼであるが、私が茶色のスモックを着て黄色い鞄を斜めがけした保育園児だった頃は、確かタバコを栽培していた。タバコの葉ってうちわみたいに大きいものなんだなと思ったことを覚えている。それを乾燥する小屋は、農機具が置かれている作業小屋とは違い、洋館めいて高く三角の屋根が載っていた。タバコ畑はそのあと苺の栽培をするビニールハウスになり、苺農家が高齢化で廃業すると誰かが花の苗を栽培し始めた。苺を作っていた頃は、形がいまいちで出荷できないような取れたてをたくさんもらったり、ひと抱えもある鍋で苺ジャムを炊いたりして春が過ぎていった。今は往時のビニールハウスの鉄の骨組みがわずかに残るだけである。

 米どころである。近所はほぼ兼業農家ばかりで、我が家のように米作り以外の生業(我が家は相変わらず種鶏孵卵業を続けていた)でやっているところはない。田植えや稲刈りのピークになると字のうちは皆田んぼにかかりきりであるが、我が家だけはそうならず、違うカレンダーで暮らしていたように感じられた。卵はご馳走だったので、分けて欲しいとやってくる人もいた。分銅秤で目方を見て値段を決める。今はスーパーの特価品なら10個100円で買えるが、当時いくらで売っていたのかさっぱり覚えていない。新聞紙にまず5個を並べ、くるっとひと巻きしてまた5個を並べ、2列を一度にくるっと返して10個を包む。卵が毎日食卓にあるのが普通だったので、大学入学を機に実家を離れるまで卵を買ったことがなかった。卵かけご飯には黄身だけを使い、白身は味噌汁に入れるのが朝の食卓の定番であった。

 集団接種、というのがあった頃なので、ある日保育園で「今から注射をします」ということになったらしい。私はなんとか注射から逃れようと、保育園の調理室へ逃げ込んだ。給食を作っているおばちゃんたちが、どうしたどうした、と迎えてくれたのだが、程なく担任の先生に見つかり、泣く泣く連れ去られチクッとやられたことがあった。自分の子どもが保育園に入った頃も集団接種があって、その日お迎えに行った私は、我が子の担任から、自分の時と全く同じエピソードを聞かせてもらう羽目になった。親子である。

 小学校へは約2キロを歩いて通った。小1は小6に手を引かれて集団登校である。通学路の両脇は田んぼで、その頃は農耕用に牛を飼っている家が何軒かあった。田圃に水が入る頃、ゆるゆるとした足取りで田のなかを進む牛の姿が見られる。木製の鋤を引いているのである。小屋と田んぼの往復の際には、当然落とし物をしていくので、それを踏まないように気をつけて歩いた。うっかり踏んでしまった朝は最悪で、学校へ着くまで囃し立てられ、学校へ着いたら靴底を見てげんなりした。牛はいつの間にかテーラーに変わり、その荷台へ乗せてもらって帰ったこともよくあった。刈られた稲が「はさ」にかけられた様子、稲藁を丸く家のように積んだ形、籾殻を焼く匂いと煙の青さ、刈り取りの済んだ田んぼを横切って帰ろうとして途中の川を越えられず、とんでもなく遠回りして帰った記憶。年々遠くなる景色のはずなのに、鮮やかに思い出せるのは、間違いなくそれが幸せな記憶だからだ。

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