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喫煙者はプールに通うといい

 スポーツをやるのは嫌いな方だ。「健康のために」って感じが良くない。そこには後ろめたさがない。「健康のために」というのは、光に満ちた公道で胸を張っているようで、馬鹿正直な感じがする。良いことで、正しいことではあるが、眩しすぎて影がない。どこか嘘くさい気がする。「健康のためにスポーツを始めた」というのは、当たり前すぎてなんだか恥ずかしい。

 しかしこの夏、私は市民プールに通っていた。水の中でバチャバチャやりたくなったから。「健康」が嫌いな私に魔が刺したのではない。週一回ニ時間ほど。いまは無職なので、平日の昼間から老人に混じって泳いでいた。
 泳いだ後はいつも以上にタバコを吸う。というか、吸える。いつもより吸える。吸えるからたくさん吸う。楽しさを感じるほどに吸える。吸える体が楽しくなる。喫煙者はみんなプールに通うといい。

 なぜ吸える体になるのか。プールに通い始めた当初は、肺が健康になったんだと思っていた。図らずも「肺活量が鍛えられたんだ」と、光の公道めいた気持ちを抱いてしまった。が、それは初心者の早計だった。翌日になると昨日の「吸える」がどこにもない。それでも、一ヶ月後の四回目には、「吸える」の原理が飲み込めた。
 私が初心者を脱し、市民プーラーとなった瞬間だ。市民プーラーの視点で見ると、プール後の喫煙は息継ぎの要領で吸われることに気が付く。息継ぎの感覚がプール後にも残り、水泳の息遣いでタバコを吸うようになる。息継ぎは一回にかなりの量の空気を吸う。そのため、いつも以上に吸えるようになるのだ。だから、喫煙者はみんなプールに通うといい。

 健康のための運動もそうだが、「当たり前」の気持ちで何かを続けるのは良くない。観念が先行して、感覚に合わなくなる。唯一の当事者たる私という「現場」の意見が反映されず、自分の中に違和感が残る。何かを続けるなら、実感したことを反映させながら続けたいものだ。バチャバチャやりたいからプールに行く。吸える体になるからプールに行く。水中から見る水面が好きだからプールに行く。行くたびにプールの感じ方が微妙に変わっていく。結果は同じでも、その時々の発見があることは楽しい。健康のために等、「当たり前」的な考えは広く認められ、安心はできるが、私には何か寂しく感じられる。何より私は、後ろめたい考えでやるのが好きだ。

 次回は、「泳ぐ」でやります。

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