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孫として、いま思うこと

2020年1月17日、ばあちゃんが天国へと旅立った。102歳という大往生だ。


家族で新年を迎えた集まりで一緒におせちを食べたその1週間後に体調を崩し、住んでいた介護付老人ホームから救急車で病院へ運ばれそのまま入院となった。肺炎を患い、人工呼吸器の装着を余儀なくされた。

掛かり付けの総合病院の医師からは、肺に水が溜まり呼吸が出来ずかなり厳しい状態で、尚且つ高齢という事もあり1週間もつかどうかだという見解だった。

呼吸が出来ずまともな会話も出来ないまま、倒れてから10日後に容態が急変し、帰らぬ人になった。

お見舞いに毎日は行けなかったが、仕事が早く終わる時にはなるべく顔を出しに行った。介護ホームに入る2年前までは、僕の両親・兄弟とばあちゃんは約40年、2世帯で一緒に暮らしていた。

僕の両親は毎日仕事が終わってから夕方にお見舞いへ行っていた。両親も70代60代の高齢者である。 病院からいつ連絡来てもすぐ出られるようにしていたという。

ばあちゃんが倒れてから旅立つまでの約10日間、いつ来るかもわからない電話に怯える心労は計り知れない。



静江(シズエ)ばあちゃんを取り巻く親族は多かった。


子供が4人いるうち男はひとりだけでその長男が、僕の父親だ。父親の秀一(シュウイチ)には妻の薫(カオル)、長男、次男、僕の5人家族に加えて、それぞれの嫁・子供を入れると、僕の家族だけで11人になる。親族を全て含めるとひ孫まで数えたら30人は越える。
僕の父親であり、静江ばあちゃんの長男である秀一は下町にある商店街の食器や料理道具を扱う店の店主をしている。


秀一が20歳の時に僕の祖父に当たる富次郎(トミジロウ)が病で急死してしまい、当時大学生であった秀一が長男だからという理由で急に跡継ぎとされて店主となった。
昭和初期の父子の関係はそこまで親密な仲ではない。
仕事や店の事などは急に任されたからといって右も左も分かる訳もなく、学生ながら家族を支えるため・残された店を守り従業員を抱えながら、ある日を境に経営者となった僕の父親は、本当に必死に生きてきたと思う。


時代のせいにしてはいけないと思うが、昭和の古い考え方なのか、4兄妹のうち男ひとり女3人だと何かにつけて「長男だから」という理由で色々決められていた。
もはや呪縛である。
店だけでなく、60代で未亡人となった静江の世話も秀一が見ることになった。
持病などはなく身体は元気だと、もちろん口も達者になる。

ばあちゃんと呼んでいたが、ニュアンスとしてはおばあ様に近い。厳格というか小姑というか。生活やお店の事などかなり口出しされ、よく衝突していた。


仕事に追われ忙しく毎日を過ごしていた秀一だが、自分がもつ家庭だけは自分ですべて決めるとしていた。

20代も後半になり結婚相談所に登録しパートナーを探した。登録して間もなく、今でいうお見合いパーティーで今の妻となる薫に出会い一目惚れした。猛アタックの末に交際し、半年後に結婚。秀一30歳・薫25歳の時であった。

嫁として迎え入れたのは秀一だけだった。

静江も他の女兄妹は完全に薫を部外者扱いをしてたが、秀一が惚れ込み、たたでさえ自分の将来を半ば強制的に敷かれたレールに沿って進まなくてはならなくなった人生において、自分のパートナー・家庭だけは自分で決め、何が何でも守り抜くという信念を貫いた。
その結果として3人の男の子に恵まれ、それぞれに可愛い嫁さんと孫まで授かり、妻・薫とは40年以上連れ添う仲となっている。


口下手で一昔前の江戸っ子のような秀一だが、意思の強さと家庭を何よりも大切にしてきたその人柄は、この両親を親にして産まれた自分としては本当に感謝しているし、世界一尊敬もしている。


秀一の兄妹はそれぞれに嫁いだ為、自動的に秀一が静江の面倒を見ることになった。

家の入り口や部屋は全く別にしていたが、日曜日以外の夕飯は毎日両親と静江は共にしていた。もちろん妻・薫の手料理だ。別にはしていても2世帯で全くの他人と共同生活ともなれば揉め事は多い。ましてや絵にかいたような姑ともなれば尚更だ。

子供たちの前ではあまり見せなかったが、時折感じ取れる張り詰めた空気の雰囲気の時は、子供ながら居心地は悪かった。

それでも静江が介護ホームに転居するまでの約40年、生活はほとんど変わらなかった。というよりも変えなかった。
何か静江が体調悪ければ、秀一はすぐに病院へ連れていったりもした。

両親の日々の努力と前向きな姿勢・労力は言葉では言い表せないほどだ。


* *


静江が倒れ入院してからも毎日、両親は病院へ見舞いしにいった。
会話も出来ないためほとんどの時間はただ病室で、隣で佇むだけだったが、そこに居るのと居ないのとでは全く違う。

正月に秀一・薫と僕の兄弟家族とばあちゃんのみんなで食卓を囲み、新年を祝うと共に薫の手料理や兄の嫁が持ち寄った惣菜などを食べながら楽しく過ごした。子供たち(ひ孫)もまだ小さく、とても微笑ましく賑やかだった。
毎年恒例の事ではあった。特に今年は特別な感じもなかった。

僕がその会食の中で特に印象に残っているのは、介護ホームから自分の自宅に一時的だが帰り、みんなで食事をするばあちゃんの隣に秀一はずっと寄り添って話していた光景だ。

内容はほとんど二人だけにしか分からない。ばあちゃんが大好きなマグロの刺身や薫が作った肉巻きなどを取り分けて食べながらゴニョゴニョと母子で世間話をしていたあの光景。

この40年、揉め事など数えきれないほどあったにも関わらず、やはり親子として秀一はずっと寄り添っていた。

もちろんその時はばあちゃんの体調も良かった。その約2週間後に亡くなることなど誰も想像しなかった。

実家のリビングで隣に寄り添い話していた静江に対する秀一の優しさと献身的な姿勢は、今もこの先も鮮明に僕の目に焼き付いているし、この先忘れる事はない。

約10日間の入院生活の時も色んな事があった。
有事の時にこそ、人の本質や家族との絆の繋がりを感じる。

ばあちゃんが入院した病院は実家から2キロほど離れた総合病院だ。東京でもかなり大きな病院で僕の両親も何かあればこの病院を利用していた。両親は毎日通い、実家の店で一緒に働く長男も頻繁に行っていた。僕も病院が通勤途中の駅であったので、10日間のうち3回ほどは見舞いに行けた。次男も同じような感じであった。

秀一の兄妹も来てはいたが、毎日ではない。ばあちゃんは話しも出来ないので正直なところ来てもさほど面倒を看るような事もなかった。
そうなると滞在時間も長くはない。来ることに意味があると言えばそれまでだが、自分の母親が危篤状態で長男の秀一が毎日来てるという状況だろうと、彼女達にはそこまで響いている印象はなかった。
僕の両親への気遣いをみせる兄妹もいたが、おそらく兄妹自体の繋がりも薄いように感じた。

もちろん実家から近いというのもあるが僕の家族はよく病院に行ったし、お見舞いの前後でもよく顔を合わせた。

入院したのが木曜日でその週の日曜日に両親と長男家族・次男家族が集まりお見舞いにいった。どちらの家族も小さな子供たちがおり、「おおばぁばの顔をみたい」とゴネて付いてきたそうたが、まだ小学校低学年と幼稚園の子供達には寝たきりの状態で機械の管を通してしか呼吸が出来ないあの姿を見てしまうと、正月に一緒に食事した時の姿とはあまりにも違い過ぎて、動揺は隠せなかった。大人でもそうなのだから無理はない。

その日、僕だけ遅れて病院に行ったのでお昼過ぎに着いた。他の家族は午前中に来て子供たちの気分を変えるため公園に行くと言って解散した後だった。
両親だけがまだ病院の近くにいたので僕の見舞いのために再度ばあちゃんのところへ付いてきてくれた。

容態は変わらず、約1時間程居て病院を後にした。病院を出たときに秀一が「なんか腹減ったな」と言って僕と両親の3人でランチをしに出掛けた。秀一が一駅隣に美味しいと評判の蕎麦屋があるというので歩いて行くことにした。

1月の中旬だったが陽が出て暖かく、真冬とは思えないほどすっきり晴れた日曜日だった。
地下鉄日比谷線の仲御徒町駅から程近い蕎麦屋だった。日曜日でもお昼時だったため混んでいたが、店内は奥行きが広く、まだテーブル席がかろうじて空いていたのですぐに案内された。

3人ともオススメの盛りそばで僕と秀一はセットの天丼まで付けて注文した。両親も高齢者でここ数日間の心労と冬の寒さが体に応え、疲労感は窺えた。
それでも僕の仕事での出来事や僕の奥さん(新婚でまだ20代前半、両親が溺愛に近いほど可愛がっている)の話しでけっこう気が紛れたのか、ふたりとも完食していた。やはり食べなきゃ駄目だよと薫から励まされ秀一もよく食べていた。

何気ない日常的な事かもしれないが、やはり普段から良好な関係を築いている家族とは気持ちが沈む暗い時にこそ繋がりの強さを感じた。

* * *


静江が入院してから8日目の平日の事だ。

いつもの様に両親は仕事が終わってから夕方にばあちゃんのお見舞いに行った。僕も仕事が終わってから向かって3人でばあちゃんを囲みながら2時間近く居た後、病院を後にして、最寄りのスーパーで夕飯を買うため両親と3人でスーパーに行き、買い物を終えてから僕は自分の家が千葉にあるため新御徒町駅のところで解散した。

僕が自宅に着いてから約2時間後の22時頃に僕の兄(長男)から連絡があった。
母親の薫が病院からの帰り、父親の秀一と自転車で帰っている時に転倒して救急病院に運ばれたという。

その報せを聞いたとき僕は物凄く動揺した。

確かにいつも行き馴れているスーパーではなかったから、地元とはいえ道も馴れてるわけではない。しかも真冬の夜19時くらいだったのでかなり暗かった。
自転車ではよくある事かもしれない事故だ。車道側を走っていたが車を避けようと歩道側に乗りだそうとした時にうまく車輪が乗り上げずに上体から横に倒れてしまったのだ。
幸い薫は大事には至らなかったし巻き添えで他のケガ人もいなかった。
薫は右目の上部を打撲し少し切っていたため出血と腫れが酷かったが、眼球に傷はなく他の箇所も骨折などはなかった。

こんな時に畳み掛けるように災難が重なるとは、、

どうしてもそんな風に思ってしまう自分がいた。
母親が危篤にある中で妻まで事故に逢ったらと思うと秀一の精神的な部分がすごく気掛かりになったが、なんとか持ち堪えていた。

救急病院は事故で転倒した場所からわりと近くで、偶然通りがかった中学生男子の2人組が倒れた薫を起こすのを手助けしてくれ、また別の歩道を歩いていた帰宅途中のOLらしき女性が救急車を呼んでくれて、すぐに秀一が付き添いで病院へ向かった。

不幸中の幸いというのか打撲とかすり傷の出血・腫れだけで済んだのは、偶然とはいえそこに居合わせた心優しい人達の迅速なサポートと、秀一が落ち着いて対応をしたおかげだと思う。

僕の方はというと、さすがに長男からその報せを受け落ち着いてられる訳もなく、次の日に仕事を休み、僕の奥さんも午後から仕事だったため2人で朝から実家へ向かった。
母親の薫は眼帯をしていたが何とか日常生活には支障なさそうだった。薫も普段は秀一の店を手伝って一緒に働いているが、仕事は休み身体を休めると言っていた。

右目の上あたりが紫色に腫れてかなり痛々しい印象だったが、軽症の部類で安心した。午前中に眼科へ行くと言っていたので、片目では視界が普段よりも遮られてしまい危ない為、僕が付き添って行き、奥さんはそのまま仕事へ向かうと言って一緒に実家を出た。

眼科までの道中、薫の身体を支えながら3人で何気ない話をしながら歩いた。薫の具合はもちろん心配ではあったが、秀一の方も気がかりだったが、とりあえず通常通り仕事していた。

仕事をしている方が気が紛れてあの人には丁度良いと薫は話していた。秀一は真面目過ぎるくらい真面目で、特別な趣味と言えば週に1度の競馬くらいでしかないため、時間を持て余すと色々と考え思い詰めてしまうタイプなのだと言っていた。

眼科へは僕だけ付いていき、奥さんは途中にある駅で別れた。
眼科への往復の間、薫の手を取り身体を支えるとやはり衰えを感じずにはいられなかった。まだ60代後半で昔から元気な印象の強い母親と言えど姑の見舞いに毎日行き、転倒によるケガの痛さと不便さからくる精神的ストレスは相当なダメージとなっていた。

それでも持ち前の明るさで気丈に振る舞っていた。『私がドジっちゃった』としきりに言っていた。
僕は母親の無事で安心もしたが、両親の心身が磨り減っていくような感覚が怖く危機感を抱いたし、まだまだ両親と過ごす時間は少しでも長くあって欲しいと強く感じるようになった。


****



薫の転倒事故の2日後の朝に、静江の入院先から秀一に連絡があった。

静江の容態がおかしいと。もともと峠は入院した時から1週間以内と言われていたが、すでに10日目だった。

秀一と薫は仕事であったが、すぐに病院へ向かった。長男は店の残った最低限の仕事や配送の手続きを済ませる必要があったので店に残っていた。

その日は平日だったので、僕と次男は普段通り仕事していた。

連絡は不意に来た。長男からだった。




14時18分、静江は眠るように息を引き取った。

2020年1月17日は真冬の寒さであったが、風はなく穏やかな晴天が広がっていた。



肺炎で自力の呼吸が出来ず、徐々に衰弱していったが、最期は安らかに逝った。

長男が電話に出た時、秀一は泣きながら声を絞り出して話していたという。

覚悟はしてた。わかってもいた。

静江が倒れてからの10日間は頭の片隅で常に意識してしまい、それなりの覚悟もしていたが、いざその時を目の当たりにすると、やはり悲しまずには居られなかった。来る時が来てしまったのだ。

ましてやそれが肉親で、自分の年齢と同じ時間を共に過ごしてきた母親の死を見届けた秀一の喪失感は大きいに違いない。

哀しみの最中ではあるが、遺された家族にはしなければならない事は沢山ある。

静江はずっと集中治療室に居たため病室を後にしなければならなかったし、静江の棺はすぐに斎場へ運ばれた。

予め準備していたというと不謹慎かもしれないが、段取り良く事を進めるに越したことはない。地元で知り合いの葬儀関係者が融通してくれた為、斎場の確保と棺の移動は見事なまでにスムーズだった。

夕方には斎場へ安置され、とりあえず一段落した。そこに居ても出来る事はないので、両親と長男は棺を安置した後、午後18時には実家に帰ってこれた。

その日は僕の妻も仕事が休みだったので、実家の最寄り駅で待ち合わせ一緒に向かった。実家に着くと両親・長男が帰ってきて間もない時だったので、ちょうど良かった。
3人とも疲れていて、秀一はやつれていたが、喪失感と同時にどこか安堵しているようにも見えた。

『もう電話に怯えなくていい。』


そう秀一がこぼした言葉が痛々しくこれまでの苦労を思わせるほど重かった。ろくに寝られる日などなかったという。

後は葬儀で最期の見送りをするだけだと思うと肩の荷が降りたのは、目に見えてわかった。

静江が亡くなった日、悲しみの底辺にあっても僕の家族は呼び掛けずとも集まり、時間を共有し食卓を囲んだ。

大人になる程に、何かあれば飛んできて両親の元へ集まる家族の事を僕は本当に誇りに思うし、両親と兄弟にはこの絆をずっと繋いでいてくれることに感謝してもしきれない。

ばあちゃんが亡くなった日は、僕の家族にとってはひとつの節目を迎えた日でもあったかもしれない。

特に秀一・薫のふたりにとっては、40年に渡る2世帯の共同生活から介護ホームに移り週1度くらいの訪問、倒れて入院してからの見舞い通院などの母への・姑への無償の奉仕ともいえる生活が終わったのだ。

『今日は来てくれてありがとね。後はもう無事に見送るだけです。』

薫の言葉に秀一もうなずき、『終わったなぁ』とつぶやいた。

不思議なものでこんな悲しい時でも人は腹が減る。
時計を見ると夜18時半を過ぎていた。そのまま家族で夕飯を食べることになった。

実家でよく頼む地元の天ぷら屋の出前を注文し、19時半頃に届いて皆で食べた。
実家で6人で食べる天丼の味は、空腹も相まっていつも以上に美味しかった。

考え方にもよるが、ばあちゃんが引き合わせた家族の時間でもある。

故人を偲び、有り難く美味しく頂いた。

食べ終えてお茶を飲んでいる時、次男がその会を締め括るように言った。

『ばあちゃんが102歳まで生きてこれたのは間違いなく両親のおかげだ』と。

それは僕も長男も同感だった。
秀一の支えと薫の健康に気遣った毎日の食事が、静江の長生きの源にあったのは確かだと思う。

その日は金曜日で次の日は僕も次男も休みだったので、少しだけ長居した。いつもはそれぞれの家族の子供たちも居るので、両親と兄弟だけの時間というのも久しぶりだったような気がする。

会話の内容はあまり覚えてないが、秀一・薫の寂しくもあり安心もした様々な感情が入り交じった印象だけは覚えている。


*****


ばあちゃんの葬儀は5日後の平日だった。

都内の斎場ではあったので遠くはなく、火葬場も同じ場所なので移動もなかった。

朝から冷たい小雨が降り、手がかじかむ寒さの中、慣れない礼服に身を包み妻と共に斎場へ向かった。

平日だろうと見送られる人は多く、都内でも大きな斎場ではあったが大小含め8会場はある葬儀場がすべて埋まっていた。

始まる1時間程前に現地に着いたが、すでに両親と長男家族は着いていた。控え室に荷物を置き、取り急ぎ故人の棺のある場所へ向かった。
棺の中のばあちゃんは、本当に眠っているようで身体を揺らしたら今にも起きてきそうな程、安らかな表情でそこに納まっていた。

秀一の兄妹やその子供(僕の従兄弟)達、他の親族も次第に揃ってきて、ばあちゃんへの最期の挨拶をしていた。

それぞれの家庭で色々な事情がある。
亡くなったばあちゃんの最期を看取ろうと集まったのだが、今となっては冠婚葬祭でしか親戚には顔を合わせなくなってきたので、そこまでの会話もなかった。

葬儀は定刻に始まり、滞りなく予定通りに進んだ。

葬儀の最中で順番に焼香をあげるが、次男の子供(まだ2才になったばかりの女の子)が次男に抱かれ焼香を手に取ったらそのまま焼香を食べようとして周りの大人がハッとするちょっと微笑ましいハプニングはあったが、無事に葬儀は終わった。

棺は火葬場へ移されそのまま火葬となり、喪主である秀一が参列者と静江ばあちゃんへ向けて挨拶をして、本当に最期のお別れとなった。

遠くから来た親戚や何年ぶりかに静江に会った従兄弟は泣いていたが、僕の両親・兄弟はこの日泣いてなかった。

おそらくだが、静江との関係性が、距離が近すぎたのだと思う。近くに居るからこそ共同生活の大変さや世話の苦労を他の誰よりも味わってきたからだ。

もちろん静江が亡くなることは悲しかった。
それでも僕をはじめ僕の兄弟は、両親の献身的な生活を長きに渡りずっと見てきた。本当に、その生活がやっと終わりを告げたのだ。

涙が出ないからといって清々しい気持ちではないけれども、複雑だった道を通り抜けた先の広々とした原っぱに行き着いたような感覚だった。


棺を見送ると参列者は一旦控え室に戻った。

控え室ではどうしても自然と家族ごとに集まってしまう。長いテーブルを一緒に兄弟家族で囲んだ。
出されたお茶菓子が美味しく皆でパクパクと食べてしまい、まるでファミリーレストランで普通に会話しながらお茶するようにしていたのは僕の家族テーブルだけだった。

こういう時、こういった場所では珍しいかもしれないが、普段からコミュニケーションを取り合い仲の良い関係を築けている証なのかもしれないと僕は感じた。



やがて火葬が終わり、納骨となった。

102歳とは思えないほど骨がしっかりと形を成して残っていると火葬場の人が話していた。確かに身体は丈夫だったし、ホームでも自分の脚で普通に歩いていた。

納骨が終わり、全ての葬儀が終わってお清めの会食となった。

先ほどお茶菓子をけっこう食べてしまったので、弁当はあまり食べれなかった。控え室は同じだったが先ほどと違うのは静江が眠る骨壺と遺影があった。 会食は1時間ほどで終わり解散となった。


葬式の後に仕事以外の予定など入れる人はそうそういない。
自然と僕の家族は両親の実家へ帰ることにした。まだ昼の14時過ぎだった。朝から降っていた雨は上がっていた。

実家には簡易的だが献花台が設けられた。
もちろん秀一と長男が設置した。訃報はすぐ地元に知れ渡り、近所の方々が頻繁に弔問しに来ていた。
秀一は何かと忙しそうであったが、16時過ぎには落ち着いた。

まだ四十九日があるものの、静江ばあちゃんへの一連の出来事は終わった。

葬式に限らず冠婚葬祭は参加すると疲れは出やすい。大人だけだと辛気臭い重たい空気にはなるが、それぞれに小さな子供がいるので、実家に集まるとなればそれなりに賑やかになった。

昼食であまり食べれなかった事や、各家庭も自宅に戻ったところで夕飯は無いので、ここでも家族皆で夕飯を共にすることになった。

ばあちゃんの死を惜しむと同時に、年明けから約3週間にわたる波乱の日々を乗り越えた両親への労いの意味も込めた晩餐だった。

地元にある行きつけの寿司屋へ総勢11人で出掛け、座敷を借りて皆で美味しい寿司に舌鼓みした。

両親に疲れは見られたが、寿司を食べて喜び広い座敷で走り回る子供たちにいつも通りの笑顔を見せてくれたので、僕は安心した。

薫は日頃から僕や兄弟に話していた。
秀一は真面目過ぎるため何か問題が起きると考え込む性格だが、家族と嫁さんと子供たちに救われたと。

大学時代の親友が今でも付き合いがあるが、交友関係は狭く仕事も家族だけしか関わらないので、家族の存在と家族と共に過ごす時間は秀一にとって生きる活力になるのだと。



これから僕の両親にとって人生第2章の幕が上がる。

まだ孫も小さい。

さらにイベントも多くなる。静江に・仕事に尽くしてきた分、老後を存分に楽しむべきだと思うし、何より両親には健康で長生きして欲しいと僕は改めて思った。


******


話が少し前後するが、静江が旅立った2日後に僕と長男だけ午前中から実家に来ていた。

静江の住んでいた介護ホームの退去手続きと撤収である。
施設のシステムは明確だ。
非情かもしれないが、ここはボランティア施設ではない。亡くなった場合、すぐに退去手続きを取らなくてはならない。部屋を借りてる以上は賃料も掛かるし、この施設を必要とする人が順番待ちをしている。

介護ホームは実家から車で15分のとこにあった。
老人ホームと言われなければ分からない程、綺麗なマンションだった。
実家にも静江の部屋は住んでいた当時のままだったが、約2年間の介護ホーム生活とはいえ、それなりの荷物はある。撤収と遺品整理には大人が数人でも2時間以上は掛かった。



静江に関する一連の出来事の中で、深く感謝の意を表さなくてはならない人物がいる。
八恵子(ヤエコ)だ。

先に言っておくと八恵子と僕の家族との間に血縁はない。僕からしたら親戚と言っていいくらい仲の良い近所の叔母さんのような存在だ。

秀一の父親で静江の旦那でもある富次郎には先妻がいた。静江は後妻だった。詳しい事は正直なところ僕もよくわかってないが、八恵子は先妻の子だった。実家の隣町に住んでいた。

富次郎がどういった人物かは僕はおろか、薫でさえよく知らない。ましてや先妻の事も。ただ実家の店や土地など後世に遺してくれたものが今となっては本当に貴重なものとなっているので、先々の事まで考えて配慮してくれていたようにも感じる。

静江と八恵子の関係は良好だった。薫も八恵子とはしょっちゅう顔を合わせ、仲は良かった。

これは薫から聞いた話だが、富次郎の先妻が生前、八恵子に言い聞かせていたようだ。


『もし、静江さんに何かあったら力になってあげてね』と。


八恵子はただその遺言を守り続け、尽くしてくれたのだ。
世話役だけなら秀一とほぼ同じペースくらいに静江の世話をしてくれた。特にホームに入ってからは頻繁に通い必要なものなどは用意してくれたり散歩なども一緒にしてくれた。

もちろん、入院していた時もほぼ毎日のように顔を出してくれた。薫よりも10歳くらい下だったが、50代後半でもフットワークが軽く、『いいのよぉ』と言って退去の時は朝早くから来て片付けの手伝いをしてくれた。

いくら親の遺言とはいえ、そこまでやれるだろうか。

秀一・薫は常々助かると言っていたが、本当に我々家族は八恵子に感謝している。

介護ホームには静江が生前、斎藤さんという仲が良かった友達が同じフロアにいた。八恵子や秀一・薫も顔見知りだった。

緊急搬送され入院し、そのまま静江は逝ってしまった為、最期に斎藤さんが静江と会ったのは咋年末だったという。

秀一が退去手続きが終わって帰る頃、挨拶に行った。かなりショックを受け泣いていた。
つい最近まで元気で一緒にご飯食べていた隣人が、急に亡くなる。
高齢者介護ホームには珍しい事ではないというが、無情にも近しい人が亡くなる現実は耐え難い。

静江の部屋の共用部分の廊下に掲示板があった。レクリエーションの時の写真が貼られていた。
斎藤さんと楽しそうにご飯を食べてる写真があった。とても良い笑顔だった。

僕の両親が以前、ホームに行った時に静江がぼそっと呟いた。

『私は幸せなんだなと、このホームに入って感じたよ。ここの住人のほとんどが、家族なんてめったに来ない。私は恵まれてる』と。

斎藤さんもそうだったようだ。
実家暮らしでは気付かない事を、最期の2年間で周りの環境が気付かせてくれた。

薫が、『おばあちゃん変わったよ。表情がとても柔らかくなったし、私達が行くとすごく喜ぶのよ』といつしか話していた。

そこには勿論、八恵子の尽力もある。

人と人との繋がりは言葉ではなかなか表現がしにくい。

相手に伝わったかどうかも分からない時がある。
ただ、環境や周囲の人からの影響で表情や性格さえも変わる。

僕の両親と八恵子に共通してるのは、人を思い遣る優しさと無償の愛だと思う。
そのひたむきな姿を見てる人や感じ取る人は必ずいる。

人に尽くすという事。

それが、その人の人格を表しているように僕は思う。


*******


静江の四十九日は僕の両親と長男、秀一の兄妹と八恵子だけの少人数で行われ、会食をして解散となった。

これで静江に関しての一連の行事は終わった。一周忌だけはなるべく葬儀に参加した親族全員で集まろうということになった。
葬儀が終わった後は、秀一は遺品整理や手続きなどで忙しくしていたが、秀一・薫の体調は問題なく、普段の日常が戻ってきた。

仕事もこなし、小さな孫が遊びに来れば賑やかに慌ただしく毎日が過ぎる。

両親にとっても僕の家族にとっても落ち着いた日々が、平穏な日常こそが何よりの幸せなように僕は思う。


********


最後に僕の事を少しだけ。

時代が平成から令和に変わった最初の年に、僕は入籍した。
相手は一回り下の清楚で色白で愛嬌のある女性だ。

以前、僕が勤めていた会社の新卒で入ってきて、上司と部下の関係になり次第に打ち解け何度か食事に誘い、交際に発展。約1年後に入籍までしてもらえた。
まだ若いのに仕事も懸命に頑張り、遊びにも行きたい年頃だとは思うが、結婚し一緒に住んでいる今は毎日が充実している。

入籍の報告で静江が居た介護ホームに僕と妻・僕の両親の4人で訪問した。昨年の11月だった。夕方頃に行くと静江は散歩から帰り、ちょうど部屋に戻ってきたところだった。

その時は102歳とは思えないほど元気だった。秀一は行く事は話していたみたいだが、僕と妻が行く事は言っていなかったので涙を流し感激して迎えてくれた。

静江の部屋で他愛もない話を沢山した。僕がお土産で持っていったチョコレートも美味しい美味しいと言ってボリボリ食べていた。
日が暮れて暗くなってきたので帰り支度をすると、寂しそうな様子が窺えた。
人が1度に来ていっぺんに居なくなった後の寂しさを思うと申し訳ない気持ちになった。


『おばあちゃん、また来るよ。正月にも会えるしさ。じゃあまたね』


そんな会話をしてホームを後にしたのを覚えている。

その当時は静江の介護ホームに行くことも正直なところ渋ったのだが、今となっては本当に行っておいて良かった。
結局、静江のホームに会いに行けたのはその時が最初で最後になってしまった。

もし結婚の報告が出来ないまま静江が旅立ってしまってたら心残りとなり、もの凄く後悔していたと思う。

ひとつだけ心残りがある。

正月に皆で集まった時に静江を含めた家族の集合写真を撮り忘れた事だ。

毎年、誰かしら言い出すのだが、静江がわりと早くホームに戻るため、秀一が送っていきそのまま流れてしまった。
2020年の正月だけが抜けてしまったが、まさかこの様な事態になるとは想像もしてなかった。

何気ない日もイベントの時も、一瞬一瞬、その時を大切にしていく意識をより強くしていこうと思った。




◎あとがき

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

noteの良いところは、公開後でも編集ができて更新出来るところですね。
初めての投稿で探りながら書きました。

そしておばあちゃんのイメージとは少し違いますが、幼少期に見たドラえもんに出てくるおばあちゃんが大好きだったのでお借りしました。

僕が今回このような形で、静江ばあちゃんと僕の家族の事を書こうと思ったのは、忘れない為の記憶として・記録として残そうと思ったからです。

プライバシーの都合上、名前は全て仮名にしましたが、書いてある出来事はほぼ実話のドキュメンタリーです。
細かな設定も多少は変えてあるので、そこはご理解頂きたいと思います。

2020年が始まってからの約1ヶ月のことは様々な事があり過ぎました。

それでも人は忘れていく生き物だから、何かの形で残そうと思い文章に起こしました。

書き出したのは4月の上旬。
通勤時や休日に少しずつ進めてきました。

今思うと、1月で良かった。
現在だと日本だけでなく世界を侵食し続けている新型インフルエンザウイルスの影響で見舞いに行くことはおろか、病院に入ることも出来ない。

静江がもしウイルスによる肺炎だったら、亡くなっても死に目に会う事は出来なかった。ウイルス感染死者は骨だけになって初めて遺族と対面できるからです。
東京も日々感染者の報告が増えていて収まる兆しが見えない。
それほど影響力があるし恐ろしく、目に見えない敵だけになかなか手強い。

タイミングがもし1ヶ月ずれていたらと思うと、これも巡り合わせなのかと思ってしまいます。

ばあちゃんが引き合わせた家族の時間も沢山あったから、時期を避けてくれたのは静江の配慮かもしれません。

静江ばあちゃんと僕の家族とは本当に色々ありましたが結果として、ばあちゃんがいたから秀一がいて薫と出会い、僕や兄弟がいる。



孫としていま思うことは、感謝です。僕の大切な家族を天国から見守っていてくださいね。

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