適切な努力がわからないのだが。
準備や根回しはいつだって必要だ。でも、やりすぎると、本番でからまわったり、長続きしなかったりする。マラソンにたとえると、オーバーワークは怪我を生み体力を奪い、ゴールできない可能性を高める。
こんにちは、こんばんは。ぐうたらするのがだいすき!くりたまきです。
休日があればベットで一日ごろごろして本を読んでいたい……そんなぐうたら人間なんですが、なんの努力もしないでいるのも怖くて「やらなきゃ!」と焦って急に夕方から頑張りはじめるタイプです。
このごろ、適切な努力量ってなんなのかなあ、とぼんやり考えている。こうして毎日書いているnoteも、これに毎日5時間かけていたら努力の仕方が違うんじゃないかな。たまにはあってもいいけど、5時間もかけて毎日note書いてたら続かないよ。
適切な努力量ってなんだろう。
効果を高めるため、結果を得るため、という目的を忘れると、闇雲な動きだけ増えてしまう。
仕事でコピーを書くってなると、もう何本でも何十本でも何百本でも書くし書き直すし、それは当たり前の前提でしかないんだけど。
運動量を増やすことで仕事で使う筋肉がついて、努力が努力じゃなくなることもある。
そもそも、「努力と思うようなことをするなんてナンセンス。すきなことを夢中でやってたら結果はついてくる」というひともいる。
たださ、人間としてさ、まず毎日をすこやかに暮らすためには努力がいると思うんだよ。努力がゼロの人生はあるのかなあ。洗濯をする、食事をつくって片付ける、掃除をする。もちろん、ルンバや食洗機を買うとかの方法で減らせるんだけど、億万長者にでもならない限りゼロにはできない。
わたしは毎日は掃除機をかけられるほどマメじゃない。3日に一回くらい。これが最大限かと言われると困っちゃうけど、頑張って3日に一回なのだ。
掃除は目に見えるから、まだいい。
でも、書く仕事は、目に見えるけど目に見えない。どこまで文章を磨くのか、終わりがない。不正解はたくさんあるけれど、たったひとつの正解はない。そしてなにが文章に影響するのか、無駄を無駄と割り切れないところもある。
「夢中でやってたら、ちっともつらくないです!」と言われると泡をふいて倒れるしかないんだけど、むずかしいなあと思っちゃうのだ。
わたしはすぐにガス欠になる人間なので、じぶんの様子を見つつ、上機嫌に歩きながら人生歩いていきたいなあ。
限界超えるまで、ガンガンやっちゃうのも楽しんだけどね。ずっとそんな風にしてると息切れしちゃう。うーん、メリハリなのかしら。
あなたはどう考えてますか?
さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。