写真が思い出になって遠くなって。

実家へ戻り、部屋を片付けていた。
たくさん、家族写真が出てきた。

こんにちは、こんばんは。
くりたまきです。

写真はまるで、異世界を切り取ったようだった。どこにでもある家族写真のはずなのに、ちょっと特別で、かといってじぶんの家族だとも思えない。

一枚ずつ、写真を整理する。

生まれてすぐ、沐浴しているわたし。
まるで真っ白な宇宙人のような見た目の赤子が、父の大きな手のなかでお湯に浸かっている。父は豊かな黒髪で、若々しい。今のわたしと同じ30歳だ。

母のメモも残っていた。「お医者さんに、ものすごく肌の白い子だねと言われた」といった内容が書かれている。

その細い子どもはどんどん膨らんでいき、推定一歳ごろにはコロンとしていた。平成のはじめ、わたしの記憶にまったくないその時代の衣装を身にまとったわたしは、やっぱりどこか他人のように見えた。

写真がなければ、知り得ない世界。

立ち上がったころの歳の写真はまたひどくて、牛のような白黒模様の服を着ている。何だこれは、と見つけた瞬間、吹き出してしまった。写真のなかのわたしもにこりとしていた。

いまは亡き祖父の膝の上にいる写真もあった。記憶にある祖父の顔は、F4のレンズでピントがずれたときのように、ぼんやりとしている。L版に収まった祖父の顔を見ると、知っているような知らないような、不思議な感覚だった。どんな声だったんだろう。

幼稚園のころ、小学生のころ、と写真は続いていく。

まるで距離を感じていなかった、長い過去が音もなく道を築いていく。これが、わたしの思い出。知らなかった写真が親近感もないまま、けれど有無を言わせず思い出になっていく。

どんどん思い出は発生して、それと同時に急速に遠くなる。写真という装置のおもしろさを感じた。

当たり前だけれど、人がひとり育つのには親をはじめとした多くの人間の協力が不可欠だ。覚えていないすべての人にも、感謝したいと思う。

わたしももっと、写真を撮ろう。未来のために。

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