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教育とは「行為」ではなく「影響」である~現象学的還元~

今回はかなり哲学的な話を書くことにする。私は職業として小学校教諭をしており、いわゆる「教育のプロ」とよばれる仕事をしている。しかし、学生時代からこの実態の見えない「教育」という言葉がずっとひっかかっていた。今の仕事には誇りを持っているし、同業界の同志や先人たちにはリスペクトの念は忘れない。しかし、彼らが「教育にこだわる」ことや自分が「教育をしている」という表現には非常に違和感を持っていた。自分がやりたいことは別に「教育」ではない、そもそも教育って「するもの」ではない、では自分がしていることは別の言葉で何と言えばよいのか。そんなことを長く考えていた。

そんな中で、とある本で見つけた『現象学的還元』という哲学的思考法をとってみると、自分の中でぼんやりとしていたものが構造化できたように感じられた。本稿はその備忘録でもあり、読んでいただいた方にもぜひ考えるきっかけになればと思っている。

現象学的還元とは

まずはこの思考法の概念を共有しなければならない。しかし、本稿の本題はここではないため、簡潔に要点だけをまとめることにする。私は以下に示す本で学んだが、まだ現象学については初学者であり、厳密な表現や理解についてはまだ言葉が及ばない部分があるであろうことをご容赦願いたい。

では、現象学の基本的な考え方を紹介しよう。私たちは、自己の外側に存在するものを「客体」とよぶ。そして、自己が客体を認識することを「客観」とよび、自己の意識内に描いたものを「主観」とよんでいる。例えば、目の前にリンゴ(客体)が存在し、それを私が認識するとき、私の意識の中に「リンゴがある」という主観がつくられる。このように、自己が対象を客観的に認識することで主観がつくられるという『主観-客観の図式』が成立する。この図式をとるときは、客観対象(客体)は自己が認識する前からそこに存在しているという前提があり、よりわかりやすくいえば「まわりにあるものを”見つける”」という行為であると表現できるだろう。

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私たちはほとんどの場合でこの思考の図式をとり、無意識のうちに「見つけたもの(主観としてつくられたもの)はそこに存在するもの(客観対象)と一致している」と自覚する。つまり、自分が認識したものは「正しい」と信じている。しかし、現象学はこの「正しいということ」をどのように証明するのかと疑問を提起し、主観と客観の一致は証明できない(証明したとしてもそのロジック自体が主観の域を出ない)とした上で、新たな思考の図式を提案した。

それが『内在-超越の図式』である。現象学では、「自己の外側に存在する客体を認識する」という従来の思考の図式を一度ストップする。これを「エポケー」とよぶ。エポケーするということは、従来のように「そこにリンゴがあると認識する」のではなく、「何があるかわからないが、赤くて丸い物体を知覚する」から出発するということである。

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現象学では、「絶対に信じられるもの=誰にも疑いの余地のないもの」を最小単位とし、それらから”確信できる”概念を意識内に構成することを目指す。ここで「絶対に信じられるもの」とされるのは、自己の知覚・感覚、記憶、想像である。これらが意識内につくられたとき、それを「内在」とよぶ。リンゴの例の場合、「赤い」や「丸い」などの視覚情報はまさしく自分が知覚しているものであり、これは誰にも疑いの余地はない。そして、これらの視覚情報に過去の記憶を加えたり、想像をふくらませたりして、自分の意識内に「リンゴ」という概念を構成する。こうして知覚などから二次的に構成した概念(=内在)を、私たちは「確信」する。

ここで重要なのは、私たちが確信しているのは「自分が見ているものがリンゴである(主観の確信)」ということであり、「目の前にリンゴがある(主観と客観の一致の確信)」ということではない。自己の内在(すなわち主観)を確信したとき、それを自己の外側に認めることを「超越」とよぶ。現象学における超越とは、あくまでも自己内につくり上げた内在(確信した概念)を対象に投影しているだけであり、実際にそのものが存在しているかどうかの真偽は問わない(そこを問題にはしていない)。

つまり、現象学は「自分が見ているものはリンゴで正しいのか」という問いではなく「なぜ自分はリンゴがあると確信できたのか」という問いに答えることを目指している。このように、『内在-超越の図式』をとることで、自分がその対象の認識に確信を得られる条件を探ることが「現象学的還元」なのである。

「教育」の確信条件は何か

以上が現象学および現象学的還元の大まかな紹介である。では、本題に入ろう。私がこの思考法を見つけたとき、「自分が『教育』と確信できる条件は何だろうか?」という問いを立てた。言い換えれば、「教育が”成立”した場面は何だろうか?」という問いである。

私が出した一つの答えは、「人が変わった瞬間」である。教育とは人を変えることを目指すものであり、実際に人が何かしらの変化を起こせば、教育として「成立」したといえる。もう一つ特徴的なのは、教育という言葉は変わった本人が使うことはほとんどなく、本人が変わることを「直接援助」した人が使うものである。

つまり、教育とは「援助する人が期待するように相手の行動や思考を変えること」と定義できるのではないか。教育をしていると自覚する人は、教育する相手に”なってほしい姿”をイメージしている。そして、そのイメージに少しでも近づくように言葉をかけたり、体験をさせたりと様々な働きかけをしている。教育とは決して教師-子供の関係だけではなく、会社や部活で先輩が後輩に指導することもそうだし、ジムのパーソナルトレーナーがクライアントにレッスンを提供することも一種の教育とよべるものである。

しかし、必ずしもすべての変化に「教育」という言葉を使ってはいない。言い換えれば、ある特定の変化をするときにだけ「教育」の言葉が使われている。それは、次の2つの条件であると考えられる。

・自分の期待する姿に近づいた変化があったとき
・援助者が関与しなくても本人が自分の意思で行動を変えたとき

ただの変化とはちがい、優劣の方向性が決まった変化を成長や進歩とよんでいる。相手に成長や進歩をみるということは、その人が期待している姿に近づいたということでもある。自らその成長に関与し、援助をしていた人は自分が「教育した」と自覚するだろう。一方で、援助者は特定の期待する行為を相手に強いても、自分が教育したとは思わない。つまり、相手に働きかけることで行動の変化を促し、さらに自分の期待する行動を本人の意思で”とってくれた”と感じられたときに、「教育」の成立をみるのである。

教育とは「影響」であり、「結果」である

以上の議論を踏まえ、現象学的還元のフレームにしたがってまとめていく。私の内在(意識内)で教育の発生を「確信」するまでのメカニズムは次のとおりになる。

①特定の相手の発言や行動を知覚する【知覚】
②自分がその相手の成長を期待していたことを自覚する【知覚】
③その相手の発言や行動が以前と比べ変化したことを自覚する【記憶】
④相手の成長を期待して過去に働きかけをしたことを思い出す【記憶】
⑤相手の思考や行動がその働きかけによって変化したと想像する【想像】
⑥自分の働きかけが相手を成長に影響したと想像する【想像】
⑦自分は「教育をした」を確信する【確信】

このように相手の変化を知覚し、その変化に自分の関与を認めたときに教育が発生したことの確信を抱くようになる。ここで重要なのは、相手の言動から変化を感じ取った地点がスタートであるため、相手に働きかけをした瞬間にはまだ何も教育は起こっていないということである。働きかけの後いくらかの時間が経過して、相手の変化にその働きかけが寄与したと意味づけられたときに、初めてそれが「教育だった」と認識される。

つまり、教育とは「結果論」なのである。教育という特定の行為があるのではなく、相手が成長したという確信が持てたときにその該当の働きかけに「教育」という箔を付けているだけなのだ。
(ここで但し書きしておくと、現象学的還元に基づくアプローチのため、相手が実際に成長しているかどうかは問題ではない。自分が「相手は成長した」と確信できればそれでよい。)

また「教育」という確信は、期待する行動を相手が自分の意思でとったという行動の自律性を必要条件としている。あくまでも教育とは、自分の働きかけによって期待する行動を直接引き出すのではなく、相手の判断や行動に「影響」を与え、間接的に誘発させることを狙っていることになる。

教師がしていることは何なのか

現象学的還元のアプローチにしたがってみれば、教育という確信が生まれるのは、事後的に相手の行動変容に影響を与えたと意味づけられた結果論であるとわかった。したがって、端的にいえば「働きかけをする時点で”今教育をしている”とは誰にも言えない」のである。ここが、私が教育という言葉に対してずっと抱いていた違和感と合致したのだった。だから私は、まるで「教育=行為」であるかのように、教師が「(これから)よい教育をするために準備する」のような表現を用いることが腑に落ちないでいた。教師が”した”ことは教育と呼べる可能性はあるが、結果論である以上教師が”している”ことを教育とは呼べないのだ。ならば、教師は自分たちが”していること”を何と表現すればいいのか。

私の中での回答は「活動の提供」である。教師が用意したものと子供たちのコミットがかけ合わさって「体験」が生まれる。つまり、教師側だけで成立する最もプレーンな行為は、ただ活動を用意することだけなのだ。実際には、その体験を通して子供たちに様々なインパクトを引き起こし、結果として多様な「影響」をもたらしうる。しかし、もう1つの変数である子供のコミットは全く操作できないため、当然ながら期待通りの影響など起こせるはずがない。

その中でもよりポジティブな影響を与えやすくすることはできる。それは「感情による作用」である。ポジティブな感情を伴った体験は正の強化となり、高頻度の行動発現やモチベーション向上につながることは心理学で証明されている。様々な体験の中で子供にポジティブな感情が多く生まれれば、それが思考や行動によい影響をもたらし、成長したと感じられる行動や発言が増える可能性が高まる。つまり、自分が「教育をした」と確信できる可能性が高まるのだ。

だから私はどんな活動も子供の感情に最もフォーカスしている。教育は昔から知識やら学びやら何かにつけて「頭」に焦点をおいてきたが、今必要なのは「心=感情」へのフォーカスだと思っている。子供にどんな感情が喚起されるのかを想像しながら、ただひたすらに活動を用意し続けることが、教師の”プロ”としての仕事なのだと思う。

まとめ

今回はやや難しい哲学的な考察を試みた。最後に付け加えたいのが、ここまでの議論の内容はすべて私の「内在(=主観)」であり、現象学的還元に基づく個人的な「確信」であるということである。これを一般解だと「超越」しようとは思わない。しかし、非常に抽象的で意味づけの幅が広すぎる「教育」というワードを背負う者だからこそ、このような省察は必要であると感じている。みなさんが同様のアプローチをとった際、どのような確信条件でどのような教育の定義ができるのかが非常に興味深い。機会があれば、ぜひ聞かせていただきたいところである。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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