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組体操に潜む「感動」という罠

本稿は、先日Twitterで組体操に関する問題提起をされた方からのリクエストをいただき、組体操に関する一考察を書いたものである。

まず、その問題提起となったツイートがこちら

とある中学校の体育祭での一場面だろうか。「10段ピラミッド」という”超大技”にチャレンジし、非常に危険な崩れ方をする映像である。発信者はこれを「虐待」と表現し、一歩間違えれば「殺人」とも言われかねないと警鐘を鳴らしている。私もこれには完全に賛同であり、結論から述べれば「運動会・体育祭に組体操をはじめとする表現演目の披露はいらない」という立場である。

これには①安全面、②教育的価値面、③行事運営面の3つの視点の理由がある。以後それぞれについて述べることとする。

1.どれほど危険なのか

同氏は、この10段ピラミッドの危険性について、次のようなツイートもしている。

このように、物理学的に算出すると、最下段の一番負荷が集中する場所には最大200kgを超える重量がかかっているという。さらに、実際の人間でつくるピラミッドは各所に「歪み」が発生し、ピラミッドが常に「揺れている」状態である。当然その”土台”には実際の重量以上の負荷がかかっていると容易に考えられる。現役時の小錦関(KONISHIKI)の体重が284kgであり、四つん這いになっている中学生1人の背中に小錦関が座っている状態だと想像してみれば、それを認める大人はいないはずである。

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これほどまでに危険なことを全国各地でやり続け、2011年度~2015年度まで組体操だけで毎年8,000件を超える事故が発生していた(スポーツ庁,2016 「組体操等による事故の防止について」)。さらに、内田良准教授をはじめ多くの専門家が組体操の危険性を「エビデンス」として発表し、スポーツ庁や自治体による規制が進められている。しかし、組体操に関する事故はピーク時の半数までしか減っておらず、未だに学校には根強く残っているのである。

2.なぜ組体操はなくならないのか

これほど危険が認識されているのにも関わらず、組体操がなくならないのは、教師が組体操による「教育的価値」を信じて疑わないからである。達成感、一体感、感動など、様々な価値を組体操の「理想」として見出しているが、実際にはどうなのだろうか?

達成感は、それまでの準備期間にかけていた思いの強さに比例する。危険を承知している教師は、いつも以上に厳しくなり、練習は「訓練」の様相を見せる。そのような厳しい指導のもとで練習を「やらされてきた」生徒たちは、果たして本番に成功させたいという思いがどこまで強くなるのだろうか?少なくとも、本番終了後に成功したことを喜んだり、ガッツポーズをしたりという姿は、残念ながら私は見たことがない。また、成功への思い入れが強ければ、失敗したときの悔しさも大きいはずであるが、そこまで悔しがる姿も見ない。教師が求める達成感が組体操を通じて感じられているのかは疑問が残る。

もう1つ、私がツイートされた映像を見て非常に「おかしさ」を感じたのが、崩れた後の生徒たちの動きである。もし、組体操を通じて一体感が生まれているのなら、下敷きになってしまった同級生を心配して駆け寄るはずである。ところが、動画では崩れた後同級生に見向きもせず、一目散に撤収している。これこそまさに、組体操中の生徒が「思考停止状態」に陥っていることの象徴であり、ただ「崩れた時はすぐに帰る」という刷り込みに反応しているだけなのだ。この光景から「一体感」や「主体性」が育まれているとは到底思えず、それを目指してのものだとすれば今すぐ手段を変えるべきである。

さらに、このようなただひたすら耐えるだけ(と思えてしまう)の苦行や、共演する同級生との感情の共有やインタラクションが生まれない活動から「感動」が生まれるはずがない。感動とは「瞬間的に強烈な感情が沸き上がることを心地よく感じる体験」であり、組体操を通じて感情が喚起されなければならない。しかし、「真剣」というよりは「無感情」になることを強いられている生徒たちは、組体操が彼らにとっての感動体験になることは考えられない。

このように、組体操を通じて教育的価値を伝えたいという教師たちの「思い」だけが先行し、それを生徒たちに落とし込む手段として全く機能していないのだ。「苦難の先に感動がある」という理想像は、ただ盲目にするだけである。感動体験をさせたければ、感動が喚起される構造を科学的に理解し、しかるべきアプローチをとらなければならない(実際にその方法は理論化されている)。

3.組体操は「観客」を感動させるものでしかない

ここまで批判的に述べている私も、組体操で涙した経験は何度もある。だがそれは、すべて私が「観客」であるときである。

― 感動とは、その出来事のプロセスに関与することで緊張状態となり、期待する結果が得られたことでその緊張から解放されたときに強い満足感とともに発生する(戸梶,2001)。
― 観戦では、応援する対象の懸命な姿や卓越したパフォーマンスが特に大きな感動を引き起こす(押見・原田,2010)。
― 同じ色のユニフォームでスタンドを埋め尽くすサポーターなど、視覚的な圧倒感が観客をより興奮させる(Uhrich & Benkenstein,2010)。

このように「感動」を扱った様々な研究から考えると、
・(我が子を含む)子供たちの頑張りを応援したい。
・ピラミッドやタワーなどの大技の成功への期待、成功した喜び。
・重い・痛い・苦しいを懸命に耐える子供たちへの同情。
・見事にそろった集団行動の美しさ。
・高くそびえるピラミッドやタワーの圧倒感。
など、組体操には、科学的に観客が感動しやすい要素が多くあるとわかる。

観る人は感動するが、やっている本人は全く感情が湧かない。これが今の組体操なのである。観る者を感動させるため"だけ"に、毎年多くの子供たちが骨を折り、心を折りながら練習しているのだ。

では、安全ならば組体操はしてもいいのか?私は次の2つの理由からNoと答えたい。
1つ目は、「観ていてつまらないから」である。安全な組体操を模索すると、「高さ」を出さないようにするため、1人技や集団行動・フラッグなどのマスゲーム的な表現で構成される演目に行き着く傾向にある。しかし、それらの平面的な表現は「上から」見ると見栄えがよいのであって、同じ高さから見ても、隊形の美しさなどはわからない。また、危険を伴う「大技」への挑戦もなくなるため、観客の期待やドキドキ感も起こりにくい。これまでの「積み上げる」組体操のイメージが強いため、平面化された組体操では観る人は楽しめないのだ。このことは理論的にも、私の体感としてもいえる。

2つ目は、「見せる運動会からの脱却」である。多忙を極める学校教育の中で、運動会や体育祭にかける準備(練習)の大半が、組体操をはじめとする表現演目に費やされている現状もある。組体操に限らず、学年のダンスや表現の披露といった「発表会としての運動会・体育祭」という側面がなくなれば、事前に何十時間という準備をする必要がなくなり、時間的な余裕も生み出すことができると考えられる。コロナの影響もあり、「保護者が楽しむ運動会」から、本当の意味で「子供が楽しむ運動会」に変わる必要に迫られているが、その「最後の砦」ともなるのが組体操なのだろう。


以上、組体操に対する私見を簡単にまとめさせていただいた。本稿を書くにあたり、複数の組体操に関する研究論文を読み、私自身の知見も深まる機会となった。貴重な機会を提供してくださったことに改めてお礼申し上げます。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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