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体育は「study」か「play」か

体育をなんとかしたいと考えている教員はとても多い。積極的に研修に参加して専門性を高めようとしているモチベーションに満ち溢れた教員は、体育にとって希望の光である。私もその中の一人だが、いざ研修会に参加してディスカッションをすると、多くの場合で次のような質問がとんでくる。

「評価はどのようにしたらいいのですか?」
「学習カードはどのように活用していますか?」
「楽しい体育にしたいけど、どうしても技の指導もしなくちゃいけなくて…」

非常にまじめである。まじめといえば聞こえはいいが、決してポジティブな意味ではないことは想像できるだろう。彼らは自分の体育教員としての責務を果たしたいからこそ、ここに悩んでいるのだと思うが、具体的な実践論ではなく、もっと根本的な部分で大きなバイアスを抱えているように思う。
本稿では、その「思い込み」の原因を明らかにし、体育指導にあたるうえでの大切な心構えを提案する。

「気晴らし」とは何か

体育の授業で扱うコンテンツは、より広い意味での「スポーツ」である。そのスポーツは、ラテン語の「deportare(気晴らし)」が語源であることを体育指導者なら知っているだろう。スポーツといえば、まずオリンピックや甲子園などの頂点を目指す大会を連想するかもしれないが、アジア地域のオリンピックであるアジア大会では、チェスやトランプまでもがその種目に含まれている。W杯に限らず、子どもたちの公園サッカーももちろんスポーツだし、近年急成長している「eスポーツ」もその名を冠している。

そう考えると、必ずしも「一定強度の身体活動」がスポーツではないのかもしれない。その語源どおり「気晴らし」がスポーツのクオリアだとするならば、一体気晴らしとはどのようなものなのだろうか。

私の中でのひとつの答えが「仮想世界」である。私たちは普段身を置いている「リアルな世界」を一時的に離れ、脳内に広がった「仮想世界」に没入することがあるだろう。例えば、マンガを読みながら「マンガの世界」に没入したり、おままごとをしている子どもが「自分の世界」に浸っているような現象である。傍から見れば「リアルな世界」での娯楽でしかないのだが、本人にとってはその瞬間を「別の世界」で生きているのだ。

このことは、実はスポーツにおいても同じである。象徴的なのがラグビーだろう。ラグビーには「ノーサイド」という伝統的な文化がある。これは、試合中はどんなに激しくぶつかり合っても、試合の前後では互いをリスペクトし、フレンドシップを忘れてはいけないという教えである。他にも、サッカーの「マリーシア」やボクシングなど、日常世界では到底許されない非道徳的な行為も、スポーツの試合中ではむしろよしとされることがある。

これらの例から、スポーツの試合中は日常世界とは違う「別の世界」であることがわかる。でも、いくらボクシング中だからといって、観客同士が殴り合ってはいけない。もちろん、選手も試合中以外は許されない。あくまでも「プレイヤー」だけが「一時的に」共有している「彼らだけの世界」なのである。そして、その「特別な世界」のルールや感情の中には、「現実世界」に持ち込んできてはならないものもある。

おままごとをしている子どもも、マンガを読んでいる人も、試合をしているスポーツ選手も、みな共通して「自分(たち)だけの仮想世界」に一時的に没入している。これこそが「気晴らし」である。語源としてのクオリアは、「一時的に仮想世界に没入すること」といえるだろう。

ゲーム内での仮想世界の共有

これだけを聞くと、「じゃあマンガを読むこともスポーツなのか」と早とちりされる可能性がある。ここで、スポーツたらしめる2つ目の重要な要素が、「ゲーム」である。

ゲームとは、「ある条件下で目標行動の達成を目指すこと」と定義することができる。ルールや時間制限などの制約があるなかで、特定のミッションを遂行することは、すべてゲームとよべる。しかし、「明日までに資料を作らなきゃ」や「5時までに宿題を終わらせるぞ」はゲームではない。なぜなら、それらの行為は「現実世界」にいたまま行われるからだ。スマホをいじるように、一時的にでも「仮想世界」に没入した中でミッションを遂行すること、これがゲームである。

その意味では、現代は「1人プレイ用ゲーム」が溢れかえっている。しかし、電車の中でスマホゲームをしている人が全員「eスポーツプレイヤー」であるとはいえない。そこで、3つ目の要素としてあげられるのが、「仮想世界の共有」である。

ゲームには、協力ゲームと対戦ゲームがあるが、どちらにしても「2人以上」が「同時」に必要である。ゲームのプレイヤーはそれぞれ「自分だけの世界」に没入するのだが、同じ時空間に居合わせることで、両者の世界を共有して「”自分たち”だけの世界」をつくることができる。これこそが大切で、ゲームとしてのスポーツを成立させるには、仮想世界の共有が不可欠になる。

「study」による学びと「play」による学び

ここまでは、体育が扱うコンテンツに焦点を当ててきた。一方で、体育が教科学習の1つであることもまた見逃せない。では、「学習」についても少し掘り下げてみよう。

「学習」は2つの意味で用いられる。1つは「知の獲得という現象(=learn)」であり、もう1つは「learnのための行為」である。現象として学習は日本語では「学び」とも称されるので、以降は「学び」の語を用いて区別したい。

改めて、学びとは知を獲得する現象を指すが、その獲得する知にもいくつか種類がある。大まかに分ければ、①言語で定義することができる知(形式知)、②身体操作や出力調整などの感覚的な知(経験知)、③無意識レベルで反応している知(暗黙知)の3つである。獲得したい知の種類が異なれば、当然その性質から効果的な手法(学習方法)も異なってくるはずである。

まず「①形式知」だが、これは必ず言語を伴うものなので、より知的な作業となる。これを獲得する方法はいわゆる「study」とよばれ、学校で行われる学びの多くがこの学習方法で行われる。特に形式知は「正しさ」へのこだわりも強く、したがって客観的に測りやすい。「知っている」か「知らない」かを明確にできるものでもある。

次に「②経験知」だが、これは感覚的なものなので、文字通り経験を重ねることで獲得できる実践的な知である。では、この経験の積み重ねをいかにして行うか。ここには2つの種類がある。1つは、獲得したい知やスキルだけを切り取って何度も反復練習をする方法である。この方法は一般的に「トレーニング」と呼ばれ、広義での「study」に含まれる。もう1つが、「play」である。直接的にその知やスキルを意識せず、知らず知らずのうちに経験が積み重なって獲得されるものである。「play」による学びは無自覚なため、標榜した知やスキルだけではなく、他の様々な要素と複合的に獲得される場合が多い。

最後に「③暗黙知」だが、これは意図的に獲得するものではなく、膨大な経験から構成される無意識的な反応である。声だけで人を特定したり、「4×6」を見てすぐ「24」が浮かんだり、ボールをキャッチするときに自然と手をボールサイズに合わせて開いたりと、これらは経験によって脳内でパターン化された反応ともいえる。そこまで至るには、「study」も「play」もともに貢献しており、方法に区別は必要ない。

子どもの学びに「遊び」が大切なワケ

幼少期の子育てや教育論をみると、より初期の子どもにはとにかく遊ばせることが大切だといわれている。つまり、子どもの学びはもともと「playベース」がよしとされているが、どこかの段階で「studyベース」に転換が起こっているのである。その原因とタイミングはどこなのだろうか。

上記の整理からもわかるように、「study」は形式知を、「play」は経験知を獲得するのに有効である。まだ言語発達がおぼつかない年齢の子どもには、知的な獲得作業よりもとにかく遊んで体験を積み重ねてほしいという理屈は至極全うである。子どもは遊びの中で、身体操作や社会性、葛藤や感情などさまざまなことを複合的に体験し、知として獲得していく。

そこで特筆すべきは、この遊びがその子の「仮想世界」の中で起こっているという事実である。「play」とは、現実世界から切り離されたところで発生し、終息する。これが最大の特徴である。本人たちの脳内に広がる仮想世界で「疑似体験」することで、現実世界でもそれを転用できるようになることが「playベースの経験知」である。現実世界にいたまま実践的な反復経験を積み重ねても、それは「studyベースの経験知」であり、ただのトレーニングである。

体育は「study」か「play」か

ここまでの内容を整理すると、「体育が扱うべきスポーツのクオリア(本質)」は

・仮想世界に没入すること(気晴らし)
・仮想世界の中でミッションを遂行すること(ゲーム)
・仮想世界を参加者同士で共有すること(自分たちの世界)

の3つである。そして、学びの区別を参照すると、体育と相性が良いのは

仮想世界における「playベース」の経験知

であるとわかる。そう考えると、冒頭に示した

「評価はどのようにしたらいいのですか?」
「学習カードはどのように活用していますか?」
「楽しい体育にしたいけど、どうしても技の指導もしなくちゃいけなくて…」

のような悩みは、焦点がずれていることに気付くだろう。そう、これらはすべて「studyとしての体育」の視点からの問いなのだ。反復練習によるトレーニング、獲得した形式知の正しさ、子どもの経験と思考の分離。幼児期は「play」による学びが中心だったのに、学校は途端に「study」を要求する。そして、この「study」と最も相性の悪い体育も、それに飲み込まれてしまっているのだ。

体育は、とにかく「子どもたちの世界」を大切にする。そして、教師はときおりその世界に飛び込んで、その中に「カオス(課題)」を置いてくる。経験したことのない課題に、子どもたちは「自分たちの世界」の中で解決を図る。そこで得た身体操作や思考の経験知を、現実世界に持ち帰ってくる。これが体育学習の本質である。

「playベース」の学びなら、いつ、だれが、何を経験知として獲得するかは関係ない。そこに教師が、評価やら学習カードやらといった「studyベース」のツールを持ち込んではいけないのだ。「playとしての体育」観がより一層広まることを願うばかりである。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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