主役を「消費者」にさせない日本の教育

東京オリンピックが幕を閉じた。感染症の影響が強く残る中、無観客という形での開催だったが、アスリートたちの躍動に世界中が歓喜と感動に包まれたことは紛れもない事実だったことのように思う。特に注目度が高かったのが開閉会式である。すべての選手が参加したわけではないが、華やかな雰囲気の中で各国の選手たちが笑顔で入場したり、式を満喫したりする姿が非常に印象的だった。

一方で、式の途中で芝生の上に寝そべったり、途中退場したりする選手もかなりの数見受けられ、主役であるはずの選手のそのような振る舞いに違和感を覚えた視聴者もいたのではないだろうか。私はむしろ、そのような海外選手の振る舞いは、スポーツイベントにおける「選手」の立場には大きく2つあることを示唆するものだと考えている。本稿は、その「2つの立場」について述べ、その視座を学校に援用することを試みる。

イベントにおける選手の2つの立場

オリンピックをはじめとする大小さまざまなスポーツイベントは、1つとして例外なく「アスリート(選手)がいなければ成立しない」ものである。スタジアムやコートがあるだけではイベントとはよべず、そこで選手が存在して初めてイベントとしての実態が生まれる。

つまり、あらゆるスポーツイベントは選手が参加するために用意されたものであり、選手はそのスポーツイベントという商品の「クライアント(顧客)」なのである。マーケティングの視点で捉えたとき、イベント製作者は選手がそこに入るための”ハコ”を商品として準備し、選手はそれに参加する形でイベントを消費していることになる。

イベントの「生産側」と「消費側」に二分したとき、選手はまず第一に「消費側」に位置付けられるのだ。

一方で、オリンピックなど多くのスポーツイベントは、選手が競技をする周囲に観客席が設けられ、あるいは中継によっても非常に多くの観客が同時に存在する。イベント製作者、選手、観客の三者がそろったとき、それらをどのように二分できるのか。それは、観客が何を観ているのかを考えれば自明である。

観客が何を観ているのか、すなわち、観客は「イベント製作者」と「選手」どちらを観ているのか。これは改めて聞くまでもないような問いである。観客が観ているのは、間違いなく「選手」であり、観客が「消費」している対象は「選手の姿」である。つまり、選手は観客が経験しているスポーツイベントの消費体験を、自身のプレーによって”生産”していることになる。観客の存在を考慮した場合、選手はイベントの「生産側」に位置付けられるのだ。

選手自身の「自認」はどちらか

このように、スポーツイベントにおける選手は、自ら「消費者」としてイベントに参加しているのと同時に、観客の消費体験をつくり出す「生産者」としての役割も果たしていることになる。このデュアルな位置づけは、P. Chelladurai(2014)も同様に指摘している(athletes as clients and as service providers)。

この両者の位置づけは常に選手の中に共存しているが、場面ごとにどちらが優位になるかは選手それぞれである。言い換えれば、選手が今自分は「イベントを楽しむ側(=消費者)」と「観客を楽しませる側(=生産者)」のどちらかという自覚(あるいは無意識的な自認)は、各自の選手に委ねられている。そして、この主観的立場の違いが、選手たちの振る舞いを大きく変えているのだ。

オリンピック開閉会式でみえた選手たちの振る舞いは、この主観的立場の違いで説明できる。開閉会式は自らが出場するオリンピックを彩るために用意され、選手たちはそれを一番近いところで満喫できる”特等席”にいるものだと捉えていることがうかがえる。つまり、決して自分の姿を観客に「見せている」のではなく、自分も一観客としてリラックスして式を楽しんでいるという認識である。特に閉会式は、選手たちにとってはオリンピックの「後夜祭」のような感覚であり、会場の雰囲気を味わいながら思い思いの過ごし方をし、気が済んだら会場をあとにするというのは、いたって自然ではなかろうか。

一方、自分たちが入場してくるシーンでは、カメラの向こうにいる母国の応援団に対して自分の姿を「見せる」瞬間であると自覚でき、したがって開閉会式の「出演者」として振る舞うことができる。このように、選手たちは同じセレモニーの中にいても、自らの立場の違いを認識しながら、それにしたがった振る舞いをしていたのだと考えられる。では、何を基準に自らの立場の違いを区別しているのか。

その瞬間の「ステージ」はどこか?

自分が「出演者」なのか「観客」なのかを選手が判断する基準は、「自分は今ステージの上にいるのか」という問いの答えである。そして、その答えを知るために、「この瞬間の”ステージ”はどこか」ということを選手たちは無意識に察知している。

入場シーンでは、選手が歩く花道が「ステージ」となり、自分たちがそこに上がることを自覚する。したがって、自らを「出演者」と認識する。一方で、入場後は次々とショーや演出が始まり、それらが展開される中央部のみが「ステージ」で、自分たちがいる芝生の上はその外であるという自覚になる。したがって、自らを「観客」として認識し、それが態度として表出される。

たとえ選手が同じ場所にい続けたとしても、そこにスポットライトが当たってステージと化したり、スポットの位置がずれてステージではなくなったりすることはある。一般の観客はもっと広範囲を俯瞰できるため、見えている範囲がすべて「ステージ」であると認識しがちである。あるいは、観客は選手を観たいと思っているため、選手がいる場所が「ステージ」であると捉えがちになる。つまり、一般観客が「ステージの上にいる」と認識している選手が、自身では「ステージの外にいる」と自覚し、”気の抜けた”態度が観客に映ってしまうことだって十分にあり得る話である。このような齟齬が開閉会式の中継では露呈したのではないだろうか。

この齟齬を許せない日本の教育

オリンピック閉幕後、今度は国内の大きなスポーツイベントである夏の甲子園大会が開幕した。その開会式の模様は、直前までのオリンピックとはまったく違うものであった。高校球児も、オリンピックアスリートと同様に、自らが出場する夢の舞台を楽しみにしていたに違いない。念願のその舞台に立てて、どの選手も一人残らず「楽しい」や「幸せ」などの感情を抱いていただろう。

しかし、開会式での彼らには、まったく笑顔がなかった。

なぜか。オリンピックでの選手たちの2つの主観的立場と比較すると、明らかな違いがある。それは、甲子園の球児たちには、自分たちが「観客を楽しませる側(=生産者)」としての振る舞いは許されていても、もう1つの「イベントを楽しむ側(=消費者)」としての振る舞いは許されていなかったことである。

入場行進の時は、当然ながらすべての注目が選手たちに集まるため、選手たちは観られるにふさわしい姿を見せる必要がある。いうなれば、出演者としての責務があり、それがゆえにあのような行進を「披露」することには何ら問題はない。しかし、式の進行中はスポットライトが当たる「ステージ」は壇上だけであり、選手はそれを見届ける「観客」である。にもかかわらず、選手たちは微動だにせず、直立していることが”要求されている”。

これはまさに、観客として自認した選手が見せる「気の抜けた態度」が、選手を観たい一般観客に対して「見苦しい姿」として映ってしまうことを避けるためのものである。それがゆえに、選手たちはスポットが当たっていないのにも関わらず、「どの一瞬を観られてもいいように、姿勢よく直立しながら真面目に話を聞いている姿を演じる」という出演者としての振る舞いが必要とされてしまうのである。このような「ムダな気張り」のせいで、選手たちはせっかくの夢の舞台をほどよくリラックスして心から満喫することができず、表情にも笑顔が出てこないのである。

そしてこの「ムダな気張り」は、日本の学校教育現場が根本的に抱えるイデオロギーが原因であると考える。そのイデオロギーとは、「子供が主役=ステージの上で輝く」というものである。スポットライトを浴びた中でステージ上での体験はたしかに貴重ではあるが、一方で年に数回もない限られたイベントに「観客」として参加するからこそ味わえる楽しさも十分に貴重である。

「選手たちが至近距離で味わう観客としての体験」と「我々が遠隔で味わう観客としての体験」は全くの別物であり、前者の体験も子供たちに保証したいのである。しかし、子供をステージから降ろしたくない大人のイデオロギーがそれを邪魔しているのである。

「子供が大人にいい姿を見せたい」という前提は勝手に大人が描いてはいけない。それをした時点で「大人が子供のいい姿を見たい」だけになってしまう。選手である子供自身が、「見せたい」と思った瞬間だけ出演者になればよくて、「楽しみたい」と思った瞬間は観客(消費者)としてリラックスした態度をとらせてあげる。それが子供の体験価値を最大化する方法なのではないだろうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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