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「タグラグビー」を指導するとき「ラグビー」を意識しているか?

学校は「文化」を扱う場所

世の中には数々の文化(カルチャー)が存在する。そして、それらは大きく2つに分類することができる。

【それ自体を楽しむための文化】
スポーツ、料理、音楽、芸術、マンガなど
【他の文化を生かすための文化】
体育、教育、法律、税金など

学校教育は後者であり、様々な他の文化(カルチャー)を活用して、よりよい生活ができるようにするための文化である。例えば、
●「文字」や「文学作品」などの文化を扱うのが「国語」
●「歴史」や「政治」などの文化を扱うのが「社会」
●「規範」や「人権」などの文化を扱うのが「道徳」
など、学校の外にある文化に触れさせ、その価値を伝えることが「学校教育」という文化の根源である。

体育は「スポーツ」という文化を扱うもの

このように考えれば、
●「スポーツ」や「健康的な生活」などの文化を扱うのが「体育」
と定義することができる。
したがって、体育は様々なスポーツを題材とした運動指導が組まれ、実践されている。それらの中でも「原型のまま体育で扱えるスポーツ」「体育用に変換して扱うスポーツ」に分けることができる。

【原型のまま体育で扱えるスポーツ】
陸上、水泳、サッカー、バスケなど
【体育用に変換して扱うスポーツ】
ラグビー、体操、アメフト、野球、ハンドボールなど

原型のまま扱えるスポーツとは、要するに「トップアスリートと同じ形式で行える」ということである。当然子供が実施するので、サイズや人数などは「縮小版」にされる場合がほとんどだが、基本的なルールやスキルは、学校の外で存在する姿と同じものとして扱われる。

一方で、①危険を伴うスポーツ、②必要な技能レベルが高すぎるスポーツ、③ルールが複雑すぎるスポーツのいずれかに該当すると判断された場合は、そのスポーツの原型では扱えないため、子供でも親しめるように「体育版」のオリジナルに変換される。
●それ自体が別のゲーム(種目)として確立しているもの
「タグラグビー(元ラグビー)」「フラッグフットボール(元アメフト)」など
●技能レベルをぐんと下げたもの
「跳び箱(元体操・跳馬)」「マット(元体操・床)」など
●形式だけを残しながらルールを自由に設定して行われるもの
「ベースボール型ゲーム」など
と、その変換の仕方も様々である。

「楽しさの源泉」はどこか?

そもそも「学校の外にあるスポーツ文化に触れさせ、その価値を伝える」とはどういうことか。人の行動心理を研究している堀田(2017)の研究(下記参照)によれば、一般的に人は価値を見出したものに対してのみ自ら関与しようとするといわれている。つまり、人から提示されて体験したものに価値を見出せば、次は自らそれを体験しようとすることになる。これに従えば、「学校の外にあるスポーツの価値を伝える」ことに成功すれば、子供は「自ら学校の外でスポーツに触れようとする」と考えられる。

堀田治(2017)「体験消費による新たな関与研究の視点」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/marketing/37/1/37_2017.033/_pdf

この行動変容こそが、体育科の目標である「生涯スポーツへの貢献」といえるのではないか。学校の外にあるスポーツを体育で扱うことで、
①(体育で扱った)そのスポーツを再び体験したい
②スポーツ全般をもっと楽しみたい
という感情をかきたてることが、文化の定義からみた体育の役割である。

そこで、「楽しさの源泉」がポイントとなってくる。

「楽しさの源泉」とは、子供が体験した運動指導の中で何の要素に価値を見出したかということである。具体例を出して説明する。

【場面1】
アカデミック先生が、チームワークを学ばせるために、自分の学級体育でサッカーを指導した。子供たちはとても楽しそうに授業に臨み、満足度も高かった。

この場面は、構成する要素によって次のように因数分解できる。

【場面の枠組み】体育の時間
【指導者】アカデミック先生
【授業のねらい】チームワーク
【他の参加者】クラスの友達
【扱ったスポーツ】サッカー
【体験したゲーム】4対4のミニサッカー

満足度が高かった子供たちは、何を魅力的に感じたのか。価値を見出したものに関与するという指摘に従えば、このように分解して考えることで、子供たちの次の行動を予測することもできる。

1.楽しさの源泉が「体育の時間」の場合
単純に「体育が好きだから」満足度が高かったという子供がいるだろう。身体を動かすこと自体が好きで、いつでも体育には意欲的な姿勢を見せる。このように教科へのイメージが満足度に影響することは多分にある。

2.楽しさの源泉が「指導者」の場合
特に子供にとっては「どの先生に教わるか」は重要な関心事である。「この先生の授業は楽しい」と認識した子供は、次回も同じ先生の授業に期待し、意欲的に参加する可能性が高い。もしそれが体育でなくても、意欲的に参加してくれることさえある。

3.楽しさの源泉が「ねらいとした教育的価値」の場合
授業でねらいとした「チームワーク」を実感し、成功体験ができた子供は、「チームワークって楽しい!」と感銘を受ける。体育以外の他の場面でも「チームワーク」を実践するだろうし、あるいは指導者の「ここでチームワークを発揮しよう」などの声掛けに積極的に反応するかもしれない。

4.楽しさの源泉が「クラスの友達」の場合
授業を通してたまたま同じチームになったクラスメートと意気投合したら、その後も良好な交友関係を続けようとすると考えられる。休み時間を一緒に過ごしたり、別の活動でも積極的に協同したりと、その相手とのコミュニケーション機会をたくさん作ろうとする。

5.楽しさの源泉が「サッカー」の場合
サッカーそのものが楽しくて満足度が高かった子供は、その後も「サッカー」に興味を持ち、公園でサッカーをしたり、地域のサッカー教室に参加したりするようになると予想できる。

6.楽しさの源泉が「体験したゲーム」の場合
元となっている競技そのものではなく、「体育版」のサッカーが楽しいと認識した子供は、同じような「気楽なサッカー」をしたくなるだろう。仮に地域のサッカー教室に参加しても、周りのレベルの高さやアグレッシブさに驚いて意欲がそがれるかもしれない。

このように、体育の授業が楽しかった”原因”が、「チームワークを実感したから」なのか?「アカデミック先生に教わったから」なのか?「素材となったサッカーという競技が魅力的だったから」なのか?など、それらは一人一人異なる。この原因こそが「楽しさの源泉」である。上記に挙げた6つの要素のうち複数を楽しさの源泉として見出すことも十分にあり得る。

「生涯スポーツへの貢献」ならば

前述したように、体育はスポーツを扱うことで、スポーツへの興味関心を高めさせるための文化として成立したものである(歴史的にはそうはなっていないのだが、現代ではこう位置付けられるべき)。つまり、学校体育でサッカーを体験した結果、もっとサッカーに親しみたくなることを目指すのであり、上述の6つの要素のうち「扱うスポーツ」が楽しさの源泉となるように指導することが達成すべき最重要課題ともいえる。

この図が示すように、学校教育は社会に存在するスポーツを一度取り込み、「体育版」に加工する。その体育版を体験した子供たちは、体育を満喫した結果、何らかの要素に価値を見出す。しかし、扱うスポーツの原型以外の要素は、どれも学校教育の中で完結するものであり、学校教育が社会に「還元」するには、その原型に価値を見出させるしかない。極論を言えば、「サッカーの面白さを伝えるため」に体育でサッカーをするのであり、子供がサッカーの面白さに気付かないのであれば、体育で扱う必要がない。

これは決して私見ではなく、体育科の学習指導要領に「生涯スポーツへの貢献が究極的な目標」と明記されている。生涯スポーツとしてのサッカーは、①自分がサッカーをするか②サッカーの試合を観るかの2つであり、どちらかの行動に結びつけることが「究極的な目標=最上位目標」なのである。

原型を扱えないスポーツが難しい

【場面2】
アカデミック先生が、チームワークを学ばせるために、自分の学級体育で野球を基にしたベースボール型のオリジナルゲームを指導した。子供たちはとても楽しそうに授業に臨み、満足度も高かった。

では、こちらの場面ではどうだろうか?【場面1】と異なる点は、「扱ったスポーツ」と「体験したゲーム」の関係である。
【場面1】では、「サッカー」を扱い、「4対4のミニサッカー」を体験させた。「ミニサッカー」は名前こそ「ミニ」だが、原型のサッカーと同じものと捉えることができる。つまり、「ミニサッカーが楽しい=サッカーは楽しい」という価値づけが自然に発生し、”体育版”スポーツを満喫させることで、自動的にそのスポーツの原型にも関心が向くようになる。

しかし【場面2】では、「野球」を扱い、「ベースボール型のオリジナルゲーム」を体験させた。オリジナルゲームがどこまで野球の原型を残しているかにもよるが、意図的な変換で「野球っぽいゲーム」でしかないことは間違いない。これだと、仮に「野球っぽいゲーム」を楽しんだとしても、そこから「野球っておもしろい」にはつながりにくい。このように、子供が楽しめるように”体育版”に変換した結果、原型に還元できなくなってしまう可能性がある。

ラグビーW杯に体育は貢献できたのか?

2019年ラグビーW杯日本大会では、日本中が熱狂するようなラグビーフィーバーが起こった。瞬間最高視聴率が50%を超えたり、日本代表の快進撃を支えた「ONE TEAM」のスローガンが流行語大賞になったりと、社会現象にもなるような大きなインパクトを与えるメガスポーツイベントに対して、学校体育はどれだけ関わろうとしたのだろうか?

体育の目標が「生涯スポーツへの貢献」であるならば、子供たちにラグビーの魅力を伝え、「ラグビーW杯を観たい!」「自分もラグビーをやりたい!」と思わせることが、体育が果たすべき役割である。ところが、当時現場にいた筆者の周辺では、そのような動きはまったくと言っていいほど見られなかった。

仮に世の中のラグビーフィーバーにあやかって(あるいは予想して)、体育で「タグラグビー」を指導した人がいたとしよう。だが、その授業で「タグラグビー」を満喫した子供が、「ラグビー」に関心を持ったのだろうか?

タグラグビーは、安全性を担保するためにラグビーを変換させたゲームであり、ルールや制約は一部違えど、ラグビーもタグラグビーも本質的には「同じ事」をしているスポーツである。子供が体験しているのは「簡易版」であり、その「完成版」がラグビーであることを理解させなければ、タグラグビーをどれだけ満喫しても、ラグビーへの関心は生まれない。ましてやその「完成形」を極めた超人が集まって世界一を決める大会が日本で行われるという、競技への関心を高めさせる絶好の機会をどれだけの教師が逃してしまったのだろうか。

タグラグビーからラグビーにつなげるには

体育でも、子供にタグラグビーではなくラグビーをさせろと言っているのではない。ただ「ラグビーの価値」を伝えるためにタグラグビーを指導しているという意識が必要だということである。そのため、まずはタグラグビーを指導する教師が「ラグビー」を理解しなければならない。

【ラグビーからタグラグビーへの「変換」】
ラグビー(完成版)の魅力 + 安全性 → タグラグビー(簡易版)

【タグラグビーからラグビーへの「還元」】
タグラグビー(簡易版)の楽しさ + ラグビー(完成版)の魅力
→ ラグビーへの関心

ラグビーを知っている人が「ラグビーの魅力」を伝えるためにつくり出したのがタグラグビーである。つまり、タグラグビーの満喫に「ラグビーの魅力」が重ならないと、ラグビーそのものへの関心は生まれない。ラグビーを理解している人がタグラグビーを指導すれば、その魅力も合わせて伝えられるだろう。しかし、主にタグラグビー”だけ”を扱う体育指導者は、社会に「還元」するためには自分自身が「ラグビーの魅力」を理解し、タグラグビーを通してそれを伝えていく責任がある。

まとめ

体育では、どうしても「野球っぽいゲーム」や「簡易版ラグビー」のような子供向けに変換せざるを得ないスポーツが多くある。それ自体は非常に重要で、最も子供が楽しめるような形式にデザインすることが求められている。しかし、同時にそのスポーツの「原型」の魅力も伝えなければ、学校の外に存在するそのスポーツには意識が向かず、生涯スポーツへの貢献はできない。

原型の魅力を伝える1つの手段として、スポーツ観戦がある。実際にW杯の日本代表の活躍を観て、ラグビーをやりたくなった子供が増えた報告もある。若い男性教師が鬼ごっこで足の速さを見せると子供が喜ぶように、トップレベルのハイパフォーマンスを観せることで、その競技への関心を高めさせることは十分に可能である。ラグビーのように原型を扱えないスポーツは、簡易版で「する楽しさ」を伝えながら、映像で「観る楽しさ」も並行して伝えることで、競技そのものへの関心を高めさせることができると考えられる。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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