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写真論を読んで

 写真論 港 千尋著 を先程読み終えた。考えてみれば久々の写真についての本でもあった。
その中で印象に残ったのは、第四章の「黒人写真史のために」に登場する、ライフ誌と最初に契約した黒人写真家ゴードン・パークスとその経歴についてだ。
アメリカの長距離列車のポーターについたパークスが、客が残していった雑誌に掲載されたドキュメンタリー写真に刺激を受け、ある日の終着駅のシアトル街の質屋でカメラ購入して撮影、その現像結果をみた写真店の受付が、ファッションカメラマンとしての仕事を紹介、その後、パークスはシカゴの社交界で活躍する肖像写真家となりキャリアがスタートする。
しかし、なぜパークスは写真店の係も驚く写真が撮れたのだろうか、パークスは写真学校を出たわけでもない、それどころか経済的な理由から高校も中退して職を転々としたとある。
そうなると、七章の写真とパピトゥスに書かれている、パピトゥスの形成という点では矛盾を感じる。
何故なら、それは育った環境に強い影響を受け、教育により再生産されるという点にある。
 ちなみにパピトゥスとは人々の日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向のこと。
 また、その時に思い出したのが最近聴いたシンガーソングライターの福山雅治さんのラジオ番組、福山さんは自分自身が音楽についての教育を受けていないことについて、心のどこかにコンプレックスを持っていることについて話していた。しかし、福山さんは知名度も高いシンガーソングライターであり俳優でもある。そして自身持つクラッシックギターのロベール・ブーシェについても話されいる。画家であったロベール・ブーシェが趣味でギター作りを始め、それが評判となり、今では伝説のギターとなっていること。
人生とは何が起こるかわからないことを話されていた。
 パークスについても同じことが言えるではないか、そしてそのパークスのパピトゥスについては、FSAでディレクターの元で、多くの作品を目にすることが出来たこと、そこで必要な知識と経験を積んだことによるものだろう。
本書にも書かれている通り、ハピトゥスが「眼」となり、眼がハピトゥスを形成する。よい作品を見て脳を鍛えていくことが大事だということがわかる。
それには、好奇心だけでなく、同じ情熱を持ち続けてきたことではないだろうか。私自身は写真学校で学んだわけではないので、この辺りは私自身にも少し勇気をいただけた内容であった。ただ月一回の都内のギャラリーと美術館巡りが、ここ数年コロナのせいでできていないのが気掛かりでもある。
 パピトゥスについてはもう一つ気になる点があった。
「木の皮」を美しいと思うかという点である。何故なら、2017年に倉敷フォトミュラルの個展部門に参加させていただいた時のこと、個展部門参加者の代表作の2L版の写真を印刷し、来場者は気に入った作品を一枚持っていけた。
そのときに私が出していたのが、木の皮のアップではないが、それに近いものであった。たまたま自分で誰が持っていくか観察していた時がそうだったのかもしれないが、海外からの旅行者に選ばれることが多かったようにも思うが、それも海外と日本の環境の違いだろうか。

2017年倉敷フォトミュラルf

 よそ者の視線では写真家鬼海弘雄さんについて触れられていた。鬼海さんがpersonaの展示をしているとき、私自身も声をかけての人物撮影をしていたことから個展を見に行き、鬼海さんから色々お話を伺った覚えがある。
当時、鬼海さんも6×6のハッセルを使われており、私自身もそうであった。
何故なら、お辞儀をして撮影するスタイルが相手に威圧感を与えないからであった。ちょうど人物撮影がやりにくくなった時期でもあるため、色々とコツなども伺った。残念ながら私が撮影した人物写真は作品として作り上げることができなかったが、本書の第十章の回帰する眼差しの最後に書かれている、「背の高いひとりの紳士が写真集を手に、ギャラリーの扉を開けて入ってきて近づいてきた。フランス人女優の姿を見つけると近づいて、写真集のページを開いて見せたのだ。 わたしです。
こんなことが起きたら、それは素晴らしいことだと思う。

大井川鐵道の沿線


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