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当たり前に 視点を置く

生き物の死というのは、やはり抵抗がある。
その者との関係性がなくても、日々報道される事件や災害による死者数や被害状況を観ただけで他人事ではないように感じる。その対象が動物だとしても同様だが、虫に関してはあまり感傷的になることはない。

僕の住んでいる地域は、猪や狸が出没することがある(猪は観たことあるが、あまり出没する方ではない。山の方では出没する)

先日、車で通勤中に道路の真ん中(白い破線)に一匹の狸が血を流して倒れていた。
車の速度を緩めることなく、何事もなかったかのように、その場を僕は通り過ぎた。周囲の車も同様に、ただ目的地へと車を進めている。

車を止めて道路の隅へ亡骸を移動させ、然るべき処置をしてくれる業者へと電話をすべきなのかを以前までは考えたこともあったが、下手なことをすべきではないと自己完結した。
罪悪感が少しあるし、見逃すことは非難されることなのではないかと気がかりな部分があった。
しかし、他の人に任せて自分は手を出すべきではないと結論をだして、達観してしまうと容易に気にしなくった。
結論を出してもなお今回気にしたのは、流血が酷かったからだ。道路の半分ほど血が飛び散っていた。

出血している姿を見ると、先程まで活発に生きていたであろう事が想像でき、死というものを強く感じさせた。普段から血を見慣れていないだけに、その感覚がより一層増した。

だから虫は、あまり感傷的にならないのかもしれない(ただ、苦手なのもある)

仮に、猫や犬など身近な動物だと周囲の行動に少し変化が見られる気がする。人は、身近な存在に感傷的になりやすい。
関わらないことが、感傷的にならないことが、人としてどうなのか難しいところだ。

血を観てこのように感じるのは、生命という者に対して深く考えて来なかったからだろう。

当たり前だと思い込んでた物を一度きちんと捉え直すのも大事だなって
生き物を食うってこんなもんだよねって割り切って達観しちゃえば楽だけど俺は、嫌です。

この記事を書きながら、ふと銀の匙(著者  荒川弘)という漫画のこの台詞を思い出した。

「真面目だね」「そんなこと深く考えることじゃない」と思われる事なのかもしれないが、当たり前の物事に視点を置いて、特に命に関するものを考える事は自分にとって確固たる何かになる気がする。

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