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わたしの中の、マヤちゃんは。

漫画「ガラスの仮面」にどハマりしている。LINE漫画で毎日少しずつ無料で見られる、ということで何気なく手をだしたが最後、今では課金万歳族である。

数か月前までは、大人しく無料で読める範囲で読んでいた。が、続きが気になりすぎて、自動販売機で飲み物を買う程度、なんて心の中で言い訳をして繰り返す120円の課金。

先月は5000円弱使ったことが判明した。その前を遡って計算することはしない…ちょっと怖いので。(ようやく最近ネットで単行本を買うという決断をした)

 思えば「ワンピース」「君に届け」「ラブコン」「花より男子」「Dーグレイマン」「銀魂」「聖☆お兄さん」「海月姫」「鬼滅」「ブルーピリオド」などなど流行りものや読みたいものは、全部友人に借りたり、TUTAYAで借りたりと、お金をかけずに読んできた気がする。

読みたかったものも待てば、少しずつ無料で読めてしまう今、間違いなく私の漫画史上一番、お金をかけている漫画は「ガラスの仮面」だ。

「ガラスの仮面」といえば、
マヤ......おそろしい子ッ」というセリフと白目をむいて顔に斜線が入った独特表情を思い浮かべる人も多いのかもしれない。

その印象のみの方に、この漫画について少し補足する。

主人公は、何か取り柄があるわけではない平凡だが、ドラマや映画を見ることが大好きな少女、北島マヤ。ひょんなことから演劇の世界に足を踏み入れ、どんどん才能を開花させていく、といったストーリー。

タイトルである「ガラスの仮面」は、数多の人間の生涯を、決して外れないガラスの仮面をかぶるように生きる、というような意味だ。

謎につつまれた、厳しくも愛情深い先生。共にがんばる仲間。演劇界の有名な両親を持つサラブレットなライバルの存在。陰から見守る人。襲い掛かる理不尽。難しい役柄。大きな目標。

どんな逆境の中でも、ただただ演じることが「すき」という感情をエネルギーに変え、世界を広げていくマヤちゃん。どんなときもひたむきに演じること、その人物として生きることを追い求めていくマヤちゃん。

そんなマヤちゃんを、まるで友人かのように、はらはらと手に汗をにぎり、(時に奇声をあげながら)見守っている。誇り高きライバルの亜弓さんの存在もまた、いい。

彼女を本当に応援したくなるとともに、一抹のうらやましさも覚えたわたしもいた。

ひたむきに「すき」を追い求める、わたしの中にマヤちゃんのような仮面はあるのだろうか。

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思えば昔から、文章がすきだった。本を読むことがすきで、その文章が織りなす世界に身を浸し、素敵だと思える言葉の表現に酔いしれた。

いつかわたしもこんな文章が書きたい、きっとわたしも何か書けるに違いない、今思えばそんな奢りがあった。
が、はかなくもそんな想いは粉々に打ち砕かれる。高校生のときだった。

わたしの通っていた高校はわりと自由な校風で、学びにも多少なりともそれが反映されていたのだろうか。

いつかの長期休みの課題だったか、形は問われない自由文章の提出を課せられた。(短編小説から、ショートショート、エッセイ、詩など多岐にわたっていた)そして、選出された作品が、「年輪」という名前が付けられた1冊の冊子になるという恒例行事?があった。いつから始まったのかは定かではないが、毎年のことらしい。

「よし、わたしも短い中にあっと驚くような展開のある小説を書くぞ」
意気込んだもの、全く何も浮かばない。己の才能の無さに愕然とした。文章がすきなことと、一から言葉を生み出すことは全く別物であることにわたしはようやくこのときに気付いたのだ。

違うクラスの友だちの作品も、とても仲の良かった友だちの作品も、よく教室で本を読んでいたあの子の作品も、あまり文章に興味があるように見えなかっためちゃくちゃお洒落だったあの子の作品も、どれも本当に面白かった。

ここでこの言葉を使うかあ、ああ、持っていき方がすごい、こういう題材を選ぶのいいなあ。級友や一つ上の先輩たちが生み出した言葉を、羨望とともに、繰り返し繰り返し目で追った。

どうにか自分も短編小説らしきものを提出したものの、その及ばなさに打ちひしがれたときの気持ちは、今でもほんのり苦く残っている。

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そして時が流れ大学生となり、社会人となる。

参考文献、ハウツー本、仕事関係の本。わたしにとって文章は、読みたいもの、というより読まなければならないもの、になる。

小説、エッセイなど純粋に自分が楽しむための文章に触れることも、なくはなかったが、随分と頻度は減ってしまった。

自分で表現する機会も、近況報告のFacebookか、どこかへ行ったときに載せるInstagram。そして雑多に呟くTwitter。

他にも気まぐれな日記は、5年ほど続いていた。が、感情と出来事をそのまま書きなぐったようなもので、推敲なんて言葉とは無縁な文章たち。

何か足りない。何か物足りない。

そんなときに出会ったのがnote、だった。長く続けている友人もいるし、わたしもやってみるか。

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知識と経験と思考と想いと。絡み合ったそれらの糸を、一つ一つほどき、一つの文章という布を織りあげること。

構成が迷子。支離滅裂。もっと上手く表現できたらいいのに。時間ばかり経つのに、上手く表せられない口惜しさ。

書きたいことはたくさんあるのに。積もっていく下書きの数々。

書くことは、時にもどかしくて、苦しかったりする。

でも、こんな風に織りあがるだろうな、という想像を超えたものが、ふいに出来上がることだってある。そのときのうれしさったら。


日常を過ごしていてもこんなことを書きたいな、なんてことをしょっちゅうメモしてしまうわたしがいる。

明日のわたしにとって睡眠が大切なんて百も承知しているのに、時に筆を走らせ、時にキーボードを叩く手が止まらないわたしがいる。

誰かになにかを伝えたい、感じてほしい、というより、わたしがただただ書きたい。拙くとも今のわたしが読み終えて、きちんと納得できる文章が書きたい。

ああ、そっか、多分今のこの熱量が、わたしの中のマヤちゃんだ。

わたしにとって書くとは。

見たこと、聞いたこと、経験したこと、感じたことを言葉にすることで、わたし自身が今ここに存在した記録を残そうとしているのか。

感情の解像度を上げようとしているのか。

それともわたしは想いを言葉にしているというより、言葉により想いを引っ張りあげようとしているのか。

わからない。わからないけれど、わたしは書くことが、やっぱり好きだ。


そんなわたしの書いたものを、また読みたいと思ってフォローをしてくれるる人がいる。

お、ちょっといいなって「すき」をつけてくれる人がいる。

そんな一人一人がわたしにとって、マヤちゃんのいうところの、「紫のバラの人」なんです。

いつも見ていただいている方、ご縁があってたまたま覗きに来ていただいた方、本当にありがとうございます。
わたしはわたしが書きたいから書きます。けれどそれをこうやって見てくれる人がいる、こんな励みになることはありません。

これからも、末永くお付き合いいただければ、この上ない幸せです。

      

     2021、6、3 碧魚 まり

#エッセイ #noteの書き方
#ガラスの仮面



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