【中編小説】金色の猫 第31話・終(全33話)#創作大賞2024
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■第31話
琴乃は切れ長の目を見開いて俺を見たが、その隣へ六花がいるのを認めると、すぐさまこちらに背を向け、足早に歩き出してしまった。「え、琴乃? 待って」「ちょっと待ってください!」俺が追いかけるより先に、小さな青い影が横から飛び出す。あまりの勢いに圧倒され、その場へ立ち尽くしてしまった。
まばゆい街灯りに染まる路を六花は真っ直ぐ駆け抜け、琴乃の腕をおもいきり掴んだ。疎らに過ぎ行く人たちが彼女たちを訝しげに振り返る。琴乃は六花の手をそっと振り払い、「彼とはもう関係ありませんので。気にしなくていいですから」穏やかに目を細めた。
「男女が並んで歩いていたら、恋人同士ですか? もしかして琴乃さん、そう勘違いされてます?」
少し遅れて駆け寄ったら、六花がそう琴乃へ詰め寄っていた。奥ゆかしい彼女の気丈な振る舞いに圧倒され、俺はつい尻込みしてしまう。
「私の名前、知って……」琴乃は目を見張る。
「はい、もちろん、存じ上げております。さっきまでずっと桂一さん、あなたの話をしていらっしゃいましたから。それはもう、耳が蕩けるほどに」「ちょっと、六花……」間に入ろうとしたものの、彼女は止まらない。
「桂一さんが見ているのは、琴乃さん、あなたです」
「桂一、ほんとうなの?」琴乃が揺れる瞳でこちらを見る。へどもどする俺の腕を六花が軽く抓った。ふと顔を上げたら、幻音堂から椿山が心配そうにこちらを窺っている。
「う、まあ、六花さんとは友だちだよ」
「そうじゃないでしょう」六花が微かにつぶやくのが聞こえる。
「そうじゃない?」琴乃が眉を顰めた。
「あ、そうです、そう、お友だちです。なのでお友だちのわたしはこれにて失礼いたします」
六花は路の真ん中で深深と頭を下げ、そそくさと薄闇に紛れて消えていった。遠くなる鮮やかな青を追いながら、「なんだか不思議なお友だちね……」琴乃が小さく漏らした。「そうだな……今日で彼女がわからなくなった」俺は六花に抓られたあたりを擦る。ふと振り返れば椿山の影はそこになく、通りへしずかに藍が滲んでいた。
✴︎
しばらくぶりに訪れた公園は金之助と爺さんと過ごしたあの日のまま、そこへあった。乾いた石畳が覗く池の前にあるベンチへ腰かけ、いつか爺さんが座っていたあたりの冷たい石を撫でる。顔を上げればビルの隙間で藍と朱がやわらかに肌を寄せ合い、それを金色の星がしずかに見下ろしていた。公園の入口へ佇む落葉樹の間から、黒い影がこちらへ向かって歩いてくる。
「はい、ピザまん。甘いの苦手でしょ」
渡された紙袋から昇る白い湯気に、「おまえ、甘いの苦手だろ」とおしるこを選んだ爺さんを思い出す。琴乃は俺の隣へ腰かけ、熱がりながら中華まんをふたつに割った。白い皮からとろりと真っ黒い餡が溢れ出す。
「晨太朗ってやつ……甘いの好きだった?」紙袋の英字を見ながら、あんまんを頬張る琴乃に尋ねる。
「ふぁに? ひゅうに、好きだったよ。お店の看板メニュー、チェリーパイだしね」彼女はペットボトルへ口をつけ、「火傷したかも」と口内で舌を動かした。——彼らはお祖父ちゃんと全然ちがう。——透きとおった声が耳の奥でひびく。
「俺と似てないの? そいつ」
琴乃は俺を振り向いて切れ長の目でまじまじと見つめたあと、「似てない」きっぱり言い放った。
「いや顔じゃなくて」
「わかってるよ。顔も似てないし、中身も全然似てない。晨太朗はそんなに女女しくない」
「めめっ……」勢いよく身体を起こして目を吊り上げた俺を一瞥し、「あとそうやってすぐむきにもならない」と慎重にあんまんを齧った。追い打ちをかけるように指摘され、俺はみるみるしおれていった。膝の上で中華まんの袋が乾いた音を立てる。
「渋沢桂一は不器用だし、何考えてるのかわからないし、洗面所びしょびしょにする、鼻歌が音痴、寝相が赤ちゃん、美味しいココア淹れてくれる、キスがうまい、猫に好かれる、やたらでかいし、幅とるし、だからいないと部屋が広い……」琴乃の白い爪先が順番に艶めく。彼女が長い指を折るたび、がらんどうだった俺の中へ光が灯っていく気がした。
「他の人ばかりで、いつも自分は後回し。そこだけは少し、晨太朗と似ているかもね。でも、桂一は今からでも、我儘になれる。私は君に、煩わされたい」
よく見ると琴乃の瞳には褐色の花が咲いている。「ほら、ピザまん、早く食べないと冷めちゃうよ」素っ気なく目を逸らした彼女を抱き寄せ、その肉厚な唇を奪った。
「やっぱ、下手かも」
琴乃はわざとらしく眉を顰める。「おい」今度は彼女によって視界が遮られた。
琴乃の湿った唇からは甘ったるい餡の味がしたが、不思議といやな心地はしなかった。彼女の豊かな長い髪からは初めて会った雪の日と変わらぬ、煙草と香水の混じった気怠い匂いがした。終わりにやさしく俺の下唇を吸い、琴乃は上目遣いで妖しくほほ笑む。その冷たい頬を乾いた指先でなぞり、「俺あんまん食べられるかも」とつぶやいた。
俺たちはピザまんとあんまんを半分ずつ交換した。上顎にへばりつく餡に苦戦したものの、チョコレートやクリームに比べたら幾分か食べやすかった。しかしやはり塩気には勝てず、そのあとのピザまんをよりいっそう旨く感じただけだった。「ほらね」琴乃は呆れていた。
「帰ろうか。きんちゃんが待ってる」琴乃が立ち上がる。
「そうだな」俺も続けて腰を上げた。
かつて金之助が駆け抜けた石畳の上に、澄んだ踵の音と靴底の擦れる濁った音が重なり合う。振り仰いだ星のない墨染の空には、落花生ほどの月が慎ましやかにかがやいていた。ポケットへ滑り込んだ琴乃の華奢な手が、ふと何かに気づく。「なに、これ」見ればその白い爪先へ金の猫がきらめいていた。
「猫折る男にもらったんだ」
琴乃は長い睫毛をしばたたき、まもなく意味を理解して目をほころばせた。「晨太朗も折ってたな。たまに外で食事をすると、毎回テーブルに何か残ってるの。足の生えた鶴とかカブトガニとか」彼女の中へ降り積もった愛に触れ、その光が俺をあたたかく照らしているのがわかった。
「俺にも折れるかな、カブトガニ」
「どうかな、難しいんじゃない。ビニル袋もうまく三角にできないし」
「え、どこが? できてるじゃん」
「どこが?」
ふたつの笑い声が冴えた石畳へこだまする。これでいい。いや、これがいいと思った。
公園を出たところでふとベンチを振り返ったら、爺さんと一匹の猫が燦爛たる月明りに酔い痴れていた。金之助よりひとまわり大きい気難しそうな猫には、鼻の下へ立派な黒ぶちがある。爺さんはでたらめな旋律を口遊みながら、チョコレート菓子の包紙で折った星をそっと虚空へ灯した。星は猫と戯れるようにあっちこっち自在に飛び回った末、とりとめのない夜空へしずかに消えていった。
■終・エピローグ
キーボードを打つ手を止めて顔を上げると、窓辺の金星はすでに薄黄色をした花びらを閉じ、しずかに眠りについていた。斜向かいの花屋もとうに店を閉めたようで、格子窓からシャッターに描かれた雀が覗く。椅子へ座ったまま大きく伸びをしたら、そこかしこの関節が次次と悲鳴を上げた。ノートパソコンを端へ避け、持ち手の装飾が美しい白いカップを持ち上げる。そして食べかけのミートパイを口へ運び、こうばしいパイに包まれたひき肉をむぎゅむぎゅ咀嚼した。すっかり冷めてしまっていたが、じゅうぶん旨かった。
一昨年の秋ごろ、晨太朗が十年前に手放した店がふたたび売りに出ていた。しょっちゅう物件条件を確かめている琴乃を見て、購入を提案したのは俺だった。それから間もなく彼女は時計店の仕事を辞め、一年あまりの準備期間を経て今年の初めに開業した。店名は英字で『Cherry Pie』である。今晩のように客がまばらな日もあるが、それでも月浜亭のSNSで阿村が宣伝してくれたおかげもあり、今のところ滑り出しは良好だ。
俺はといえば琴乃の店を手伝いながら、時折、月浜亭にも顔を出している。そして時間を見つけてはこうして小説を書いているというわけだ。机に向かってひたすら語句を繋いでいくという作業は不馴れな俺にとってなかなか困難で、ひどく時間を要した。しかし没入していく感覚が思いのほか心地好く、不思議と根気よく続けられた。
名を呼ばれた気がして顔を上げると、そこへ麻のエプロンを纏った琴乃が立っていた。時計店を辞めてから、少し見た目がやわらかくなった気がする。
「もうお客さん来なそうだし、そろそろあがろうか」
俺は頷き、パソコンを閉じた。「お母さんがね」調理場の入口で琴乃がこちらを振り向き、大きな声を出す。「お母さんってどっちの」カップと皿を手に調理場へ向かいながら尋ねたら、「あなたの」と返ってきた。
「愛知へ行くなら、まっくろくろすけのぬいぐるみを買ってきてほしいんだって」
まっくろくろすけが好きなのは母親だったのか。弾けるように笑い出した俺を、琴乃は不意をつかれたような表情で見つめていた。