見出し画像

「ある男」

久しぶりに小説を読んだ。

平野啓一郎さんの「ある男」だ。

名前も何もかも全て捨てて、別の人生を生きたいと思うことがある自分にとっては、人と人生を取り換えるとはどういうことなのかとても興味があった。

人は何らかのラベルをつけられると、無意識にそれに合わせてしまうもののような気がしている。よく分からない体調不良に、何らかの病名がつくとそれっぽくなるようなそんな感じだ。

別の名前とそれが背負ってきた別の人生でどう生きるか。どう生きられるのか、とても興味深かった。名前やそれが背負ってきた人生を取り換えたとしても、自分自身は続く。自分自身であることに変わりはない。どう生きるかも名前や人生を取り換えても変わりはしないのだ。そこに何となく人としての矜持を考えた。

自分自身であるところに、別の人生が加わって、それが混ざっていく。今までの自分をそう簡単にリセットできない上に、違うものが混ざり合う。名前と人生を取り換えたとしても、自分自身であり続けることに変わりがない、より複雑だ。そこにはそうせざるを得ないほど重たいものを背負っているのだが、自分自身であり続けることに絶望をしなかったのだろうか、とふと思った。アイデンティティとは何か。そんなことも考えた。

また少し時間をおいて読み直したいと思う。

この本のキャッチは「愛にとって、過去とは何だろう」だ。

名前や過去の人生がたとえ偽りのものだったとしても、自分たちの間に確かにあった生活の営みや感情を、どこまで信じられるか。それが揺らぎそうになりながらも、自分が確かに感じた幸せやその人のことを信じ、それを拠りどころとして生きる家族に力強さを感じる。過去はその人の中に既にある。知らないことなど山のようにある。全てを知ることに意味があるのかも分からない。

過去はどうあろうと、自分とその人の間の時間と、自分の感覚を信じること。結局目の前のそのものを信じること。いまを信じること。自分を信じることなのかもしれない。

そうは思うものの、なんとなくそれは苦しい。この苦しさはどこからくるのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?