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今週の読書 8/19「知性は死なない」

昨日発売の欲しかった本を近所の書店に買いに行ったら、売り切れていた。本は結構売れてるんだな、と実感する。あした大きな本屋に行ってみよう。

引き続き、「知性は死なない」を読んでいる。

耳が痛い。知性とは何か、という辛辣な話だ。心も痛い。

「嫌われる勇気」はわたしも読んで結構影響された部分は大きい。機能主義的な解釈は新鮮だった。でも結果それによって自分は病気に気づくのがとても遅れてしまったようなところはある。自分は目の前のことから逃げたいからしんどいと思っているだけで、逃げてはいけない、と。休職中にやっぱりえせ知識で結果自分を追い込むくらいならば、ちゃんと読もうと改めて図書館でアドラーは専門書も何冊か読んではみたのだけれど。

この休職中に思ったことは、やっぱりちゃんと知りたい、興味を持ったことは、基本から専門的に勉強しようね、ということと、ちゃんと原典にあたろうね、ということだ。変な解釈をすると大怪我をする。興味を持つ糸口として、そこから入るのは良いとは思うのだけれど。原典を読むだけの日本語力も正直最初はなくて放り出したりし、戻ったり、そういうことを繰り返しながらも、原典を読んで理解することは重要だと思う。そうしているうちに、いい本と変な本も見分けられるような気がしている。どちらにせよ、そこから自分がどう考えるのか、自分の頭で考えることが重要なのだけれど。

伊藤計劃の「ハーモニー」は読んでみたくなった。

「読みたいことを書けばいい」でもあったけれど、言葉の定義はやはり必要であるし、言葉の意味を正しく理解し、使うことは気をつけなければいけない。

「理屈以前の、身体感覚としての『俺たち』」の範囲を、民族(エトノス)とよぶことにしたいと思います。

これもまた新鮮だし、腑に落ちる。理屈ではない身体感覚としての「俺たち」。

まさしくいま、世界規模で身体が言語(理性)に反発しているのです。

感覚値として最近これを感じることも多い気がする。ここの読み解きもわかりやすい。

最後の章。

友だちを「属性や能力にかかわりなく、あなたと付き合ってくれる人」と定義している人は、どれほどいるでしょうか。

私も病気で能力を失ってしまった経験で、なんとなく感じている。自分の属性や能力が損なわれるとやはり去っていく人はいる。それが知れたことはラッキーだった。

属性はもちろんそうだが、能力というものも案外いつ失われてもおかしくない物だ、ということは衝撃だった。病気の前と後では、私は割と数字に強かったのに、今はすっかり弱くなっているし、変化するものだ。これは自分では想定外だった。

それを思うと、著者の

「どれだけ大きな能力の差をカバーできるかで、そのものの価値を図ってみよう」

という提案や

人びとの間に「能力の差」は常にあるのです。
その差異が破局につながらず、むしろたがいに心地よさを共有できるような空間をデザインする知恵こそが、いまもとめられています。

という言葉は深く共感した。

知性とは旅のしかたであって、行き先のことではありません

これは肝に銘じたい。

この本は自分の薄っぺらな知性とも呼べない代物を打ち砕きながらも、ここまで人は回復できるのか、という勇気をもらい、これからどう生きていくか、のおぼろげな方向性を得た気がする。

私も焦らずにまだ道半ばの回復を目指しつつ、この経験をもとに、これからどういう問いを持って、それにどう答えていくのか、ということを繰り返して生きたいと思う。

いきなり「問い」と書いたのは、この休職中に改めてフランクルを読んで、彼の思想を言語的にも身体的にも理解したいと思っているから。彼の言葉に、人間は問う存在ではなく、人生に問われている存在で、それに応えることが生きること、というような言葉がある。それを理解したい、と常々思っているからだ。自分は何を問われ、それにどう応えるのか。

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