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夜と霧

「夜と霧」について深く読む、という講座を受けた。

今までは教室での講座だったものが、最近は色々な講座がこのコロナでオンラインでの参加ができるので、とてもありがたい。

「夜と霧」は私の心の支えだ。自分の読み方だけで、深く理解できているのか、他にどんな解釈があるのか知りたかったので、何かないかと探していて見つけた。

発見がいくつかあった。

まずは「苦悩」についてだ。

かつてドストエフスキーはこう言った。「私が恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

ここは結構冒頭に出てくる。ここのあたりはあまり読み解いていなかった。「苦悩」とは一体何か。ここで、不安と、苦悩の違いについて知っているか、と言われた。自分の認識は、苦悩は根源的なもので、不安はもっと生活によったものかな、と漠然と捉えていた。先生によると、不安は常に未来的なもので、苦悩は現在的なもの、とのこと。言われてみればそうなのだが、目から鱗だった。フランクルが引用したドストエフスキーの言葉に戻る。苦悩こそ、価値そのものという。苦悩とは人生の秘められた意味に導くもの。避けがたい宿命と向き合うこと。苦悩、という視点ではあまりこの本を読まなかったかもしれない。どういう苦悩から、精神の自由は生まれたのだろうか。

収容所にあっても完全なうちなる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人々だけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。

ここを読んだ時、そうだよね。。そこまである種悟り自分を律することが出来る人間は少なく、苦痛に埋没しそうだとは思った。でもそんな話だけではないらしい。「たったひとりだったとしても」が、重要とのこと。ひとりへのこだわりがそこにはあるというのだ。ただ一人でもいれば、人にはその様な素養があるという証になる。人間の持つ潜在的な可能性を示すものだと、いう。正直そこまで考えなかった。そういう可能性があるということは何となく感じる程度だ。これは希望だ。ひとりというところに、希望は相対的ではない、ということを読み解く。相対的なものに絶対的希望を委ねてはいけない、と。

やはり一言一句丁寧に読む、というのが深めるということなのかもしれない。

もっとも発見だったのは、本というのは対話だ、ということだ。読むだけではなく、読んでそれに対して考え、本からの問いに答えていくことだという。本に何か答えたことがあっただろうか。自分なりの答えを探す、というのは答えていく行為の一つなんだろうか。

もっと大量にメモを取ったので、それを眺めつつ、また「夜と霧」を丁寧に読みたいと思う。参考本もいくつかご紹介いただいたので、まだ読んでいないものを読んでみようと思う。

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