今週の読書「目の見えない人は世界をどう見ているのか」
今週は注意力散漫でいろんな本を少し読んでは代えを繰り返しながら読んでいる。
なかでもまるっと読めたのがこの本。
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334038540
伊藤亜紗さんファンです。本当にいろんな感覚や体について、開眼させられることが多く、著作や、イベントなどでお話を聞いたりしている。
気になったものをいくつか。
「見えない」という身体的な特徴が、情報を処理する方法の違いを生むということは、ものを考える方法にも影響を与える
これもとても面白かった。ここに出ているスーザン・バリーさんの「視覚はよみがえる」も読みたい。彼女は斜視で、特殊な訓練で立体視能力を手に入れたご経験について語っているそうだ。それにより空間とは何かが分かるようになったことで、情報の処理の仕方が変わり、論文を読むときにも、全体を一気に把握することができるようになったそうだ。ぜひ真似したい。。
自分のものの見え方は、自分の思考のやり方で、見るとは、この見えている風景とは本当にパーソナルなものなのだなと。そして同時に人とあたりまえに共有されているものではないかもしれない。
それまでの彼女の情報処理の仕方は、「部分の積み重ねの結果、全体を獲得する」というものだった。ところがりだたいしがでにらようになったことで、「まず全体を把握して、全体との関係で細部を検討する」という思考法ができるようになったのです。
この本に出てくる中途失明の難波さんのお話はとてもおもしろい。難波さんは失明した当初は情報の少なさにかなり戸惑ったそうだ。そしてそれを手に入れるには、と考えていたそうです。そこからニ、三年後、
自分がたどり着ける限界の先にあるもの、意識の地平線より向こう側にあるものにはこだわる必要がない、と考えるようになりました。
ここから伊藤さんは、下記のように語る。
踊らされないで進むことの安らかさを、難波さんは悟ったのではないでしょうか
ここではコンビニに別の用事で寄ったのに、店内でキャンペーンを見てつい、いらないものを買ってしまうような話が出てくる。
自分の意思で動いているようでいて、私たちは結構踊らされている。コンビニのような売上を最大化する仕掛けに満ちた場所は典型的な例だ。
多くの情報を持っていることによって、より踊らされる。私たちは、なにを見ているのだろうか。
ソーシャルビューの美術鑑賞もとても興味深い。なんとなくシーンと静かに鑑賞しなければいけない雰囲気だが、もっと会話があっていいと常々思っていた。今はますますコロナで話せなくなった気がするが。
つまり、ソーシャルビューは、見えない人にとって新しいだけでなく、見える人にとっても新しい美術鑑賞なのです。いったいどんな意味に、どんな解釈に到達することができるのか。解釈には正解はありません。目的地を「目指す」のではなく「探し求める」この道行は筋書き無用のライブ感に満ちています。
そこでまた言語化の問題が出てくる。私はとても言語化に興味があるので気になってならない。自分なりの解釈や見えた物、色を言語化することはできるのだろうか。見えない人にもわかりやすく伝える事はかなりハードルが高い。見えない人にも分かる言語化、解像度の高い言語化とはどういうものだろう。
見える人と見えない人がいっしょになって、頭の中で作品を作り直していく過程は「見るとは何か?」を問い直す作業でもありました。見える人が実は見えていないかもしれないこと、見えない人の方が実は柔軟にみているかもしれないこと、そうしたことをお互いに感じることによって、関係が揺れ動きます。
見えることと、見えないことに優劣はないというか、見えないことは可哀想なことではない、というか。お互いにできることとできないことがある、得意分野と不得意分野がある、というあたりまえの関係性。
こうした個人の「できなさ」「能力の欠如」としての障害のイメージは、産業社会の発展とともに生まれたとされます。
労働が画一化したことで、障害者は「それができない人」ということになってしまった。
ここから、長い時間をかけて昨今は、また変化している。こういう地道な変化、良い兆しが見えることに、ほっとする。
従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かできなくなる、そのことが障害だと言うわけです。障害学の言葉でいえば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こったのです。
伊藤亜紗さんの本は、いつも「ああ、読んで良かったなー」と思う。読んだ後と前とで少しだけ見える世界が違って見える。伊藤さんのご専門は美学。美学はこんなにも広い世界なのか、ととても興味がある。
世の中は本当に知らない物だらけだし、知っているようで、それはその世界のほんのひとかけらだったりする。そして、それに絶望したり、面白がったりする。永遠に全てを知ることもできない。不思議なものだ。
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