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今週の読書 9/20「疾風怒濤精神分析入門」

2度目の「疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ」を読んでいる。

第6章「不可能なものに賭ければよいと思ったら大間違いである」。前に読んでこの章が分かりにくかったのでじっくり読む。

欲動と欲望の違いは興味深い。同じようなものと思っていたが、大きく違う。なかなか字面も似てなくなはいので、しばしば混同してしまった。

欲望はシニフィアン的に構造化されており、象徴界の<法>にしたがっています。これに対して欲動とは、むしろ言語の<法>をはみ出すような過剰なものです。よってそれは象徴界のものというより、現実界のものだと言えます。

満足ということについて個人的に色々と考えることがあったのだが、この本を読んでますます分からなくなった。満足を得るには?これはどの<もの>体験であったか知ることと、そこで得た享楽は手に入らない、と受け入れることが満足につながるのだろうか?まだ分からない。

<もの>の体験も一度きりのものであって、そこで得た享楽は以後失われてしまいます。人は<もの>の体験で得た享楽を取り戻すために、<もの>の代用品を求め続けます。しかし享楽はすでに失われ、不可能なものと化していますから、反復行為は常にどこか欠けたものにならざるを得ません。
むしろ「無理なことは無理だ」と思い知ってから生まれる何かに賭けるのが精神分析です。

なかなかハードルが高い。再び得ることができないことを、思い知った先に何か生まれるのだろうか。じゃあどうすればいいの?と戸惑う以外思いつかない。そこから何が生まれるのだろう。

欲望は、<もの>の喪失によって生まれ、<もの>の享楽を取り戻すことを目標とする。では欲望と欲動の関係は?

欲望の目標とは欲動の満足であるということになるでしょう。そう考えれば、欲望は欲動の中で動かされていると言えます。

そうなると、当たり前のことだが、捉えることのできない現実界に振り回されていることになる。その現実界の残した欲望という足跡なのか、尻尾なのかを手がかりに現実界を取り扱うということになるのか。

そこで出てくるのが、象徴界と現実界の境目にある、対象αだ。対象αは<もの>の残滓だ。なんだか欲望と似ている。

分かりやすい解説だけれど、うーん、難解な。。しかし、面白くもある。

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