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先週から引き続きの読書 5/11−1

もう「溺れるものと 救われるもの」だけ読んでいる。読み終わったら、1週間1冊にしよう。

久しぶりに体感が苦しい本だが、読む価値がある。

「アウシュビッツの知識人」の章。収容所内では、教養のあるものより、ないものの方が適していた。この状況を理解しようとすることは無駄で、それよりも道具をうまく使えるか、煉瓦をうまく積めるかの方が生き残るには有益だ。それに死を前にしている極限状態では教養も無教養もない。この章でも触れられているが、ドイツの知識人達は、なぜこれを受け入れたのだろうか。私にはちょっと理解し難かったので、引用しておく。

 今まさに自分を抹殺しようとしているこの連中は、今日じゃであると言う厳然とした事実にのっとり、もしかすると自分より正当なのではあるまいか、と思いはじめるのだ。かくしてインテリ特有の、原理に忠実な思考と整然とすすむ懐疑とが自己破壊へと追いつめる。

強者こそがその社会に適合した最適解である、と言う捉え方なのだろうか。

「ステレオタイプ」の章。ここでは生還後に投げられた「なぜ逃げなかった・反乱を起こさなかったのですか?」と言う問いに答えている。元々、飢えと虐待で衰弱させられている。しかし、逃亡や反乱はおこっていた。その度に「有益な暴力」が力を発揮する。がんじがらめで、自由があるどころか、今日を生きる意思以外全てを奪うようなシステムだ。「なぜそれが始まる前に逃げなかったのか」。それらの問いに対して、辛辣に批判している。あと知恵では何も理解することはできないのだ。全ては一気に起こるのではない。茹でかえると一緒だ。それは緩やかに起こり、気がつけばもう取り込まれているようなものだと思う。

ここではあと知恵やステレオタイプの考え方に注意する必要がある。もっと一般的にいうなら、今日この場で支配的な尺度で、遠い時代や場所を判断することから生まれる謝りに注意する必要がある。

自戒もこめて。

残りあと2章だ。



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