自己紹介(親と子の関係から)〜片親の子達のコミュニティ『tie!』〜

初めに。
この自己紹介は片親の子達のコミュニティ『tie!』を作ろうと思っていて、その為の自己紹介である。なので普段関わっている人も知らないことばかりだと思う。だって言ってないから。
本題へ。
僕は今、某所で医学生をしています。医学生であることを最初に述べたのは、経済的に苦しい学生があまりいない、僕を含めて恵まれている人が多い環境にいることを自覚していることを伝えたかったから。私は現在片親家庭ですが、この大学で他に片親家庭の学生は1人しか知りません。今主に見ている世界はこういう世界。
本題に行きます。
小学校低学年までは専業主婦の母とエンジニア?として知人と町工場のようなものを経営者のような労働者をしていた父のもとに生まれた一人っ子です。小学校に入るまでは私が病弱すぎたこともあり、母は専業主婦をしていました。
しかし、私が小学校3年生ごろからあまり儲からない父の会社の収入だけでは苦しいためバイト医をするようになりました。このころ、父の会社も海外に輸出するようになり、外国での仕事も増え短期で2ヶ月、長期で一年程出張をするようになりました。そして私自身は中学受験のために塾に通うようになりました。はじめは真面目に勉強をしていたためとても成績が良かった、しかしある意味これが不幸を呼んでしまったのかもしれません。小5の時に父のゲームにどハマり、隠れてゲームをするようになった私の成績は急降下しました。タイミングが悪いことにこの時父は1年間の海外出張真っ最中。私的にはゲームにハマりながらも勉強をしないといけないと常に思い続けていたため、「頑張っていた、苦しかった」という思いは今でもあります。この年の解釈を巡って(これだけではないのですが明らかにこれ以降)私と母の溝は深まるばかり、そして今も埋まっていません。父と母のパワーバランスは客観的に見ても母の方が強いことは明白であったため、父にもサボるなと叱責されていました。同じように父と私の溝もありました。このあと紆余曲折を経て私は高校三年生になりました。この年は春にコロナが大流行。まともに学校が再開した秋(10月)のことです。やっと海外との仕事も再開しつつあり父は大忙しでした。毎日疲れていることは明らかでしたが、あまりにも異常でした。結局黄疸だっただけに顔が黄色かった。母に受診を勧められましたが、病院嫌いの父は2週間ほど先延ばしにしました。父が病院に行ったのは私が母の勤務先の病院にワクチン接種に行った日のことでした。ワクチン接種の終わりと母の仕事上がりが偶然一緒だったため一緒に帰りました。病院の最寄りで電車を待っていた時、母の元に父から検査結果の報告の電話がかかってきました。電話を切った時、母は一言つぶやいた。「癌かもなあ」
検査を重ね、診断は膵臓癌。ステージは忘れましたが余命1〜1.5年と宣言されました。結局私は浪人。約1年半後、共通テスト後の2週間くらい後に病状は急変、コロナも終盤とはいえコロナ禍でも面会が許されるレベルになりました。この日予備校帰りに知らされ母と共に病院へ。これが私が父の姿を見た最後の時です。すぐにホスピスに移り、最期は京大の2次試験の10日前に父は息を引き取りました。母は私が壊れると思い入試が終わるまで言うつもりがなかったみたいですが、父の葬式の日に私が「父はまだ生きているのか」と勘づいてしまい問い詰めたら「今日葬式をするよ」と言われました。母から行かない方がいいと言われたことまだ父が亡くなったことを受け入れられていなかったこと母方と父方が仲が悪いと言うことなど色々なことがあり結局葬式には行っていません。理論的には行けなかったが、行くべきだったのかなという思いは今もあります。
 その前後、学費や奨学金を調べるようになりましたが、情報量が多く処理することが大変だったなと思います。特に現役時は父母子の3人で調べることができましたが浪人時は母子で調べたため、支援制度を調べることすら人手がないと非常に大変だと言うことを身に染みてわかっているつもりです。
『tie!』は、片親の子達、先輩や同級生時には後輩が知っておくべきこと(特に片親家庭が知っていた方がいいこと)の共有や悩みの相談をできるコミュニティにしたいと思っています。
もしこの活動に参加したいと思ってくれている方がいたらぜひ、黒川昼寝の𝕏(@sleep2024_)までご連絡ください。
最後にこれは父に対する懺悔のつもりで書きました。生きているものとして未来に対する希望を書いたことは、僕にできる最大の弔いだと思っています。合掌。

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