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霧の向こうに見えるもの

自動思考の霧が半透明くらいになって、人の見方が変わった。

僕は指摘されることがとても怖い。それは「無能がバレる」瞬間だから。会社において無能だと「見捨てられる」。僕のスキーマではそうなっている。
だからメールで「致命的な間違いがありました」ときたときはびくっとなった。

僕は会社のWEBサイトに載せる記事を担当していて、書き上がったらまず社内で監修してもらっている。その中で特に苦手な人がいて、今回その人へ監修依頼した結果がメールで返ってきた。「致命的な間違い」その言葉は僕のスキーマを貫いた。

これまではそこで自動思考の霧に覆われていた。
「失敗した」「間違いをおかした」「完璧じゃなければならないのに」
などである。その時点でパニックになり続きを読めなくなっていただろう。

だけど今回霧は発生したが、自動思考に左右されるほど濃いものではなかった。そのため落ち着いて全文を読むことができた。
そうしたら「致命的な間違いは1つだけでした、他に言い回しで気になった部分はコメント入れてあります」と書いてあった。あれ。そもそも「1つ」というのを見落としていた。

「よかった、確実に修正するのは1つだけか」全部を読んでそう感じた。
実際に記事を確認したところ修正箇所は法律の解釈についてで、取り違えても仕方ないなと思えた。またコメントが入っていた箇所も、表現について論理的に提案が記してあった。

結局間違いや納得のいく部分は修正し、狙いがあって書いた文言はそのままにした。一連の作業を終えてみて、思ったよりスムーズでびっくりした。

なぜこれほどまでに怖がったのだろう。
おそらく、
①「この会社で偉い人」
②「社外でも活躍している」
ことが大きかった。

僕は会社へ依存していた。おかげでこの会社でやっていく自信はついたが、反面この会社でしか通用しないんじゃないかと不安もあった。
そのため社内で影響力があり、かつ社外でも活躍している人を過度に恐れたのだろう。

またこの「偉い人」という表現がバカっぽくていい。素直に出てきた言葉なのだが、僕はその人を見ずに地位や影響力だけで怖がっていたんだなと痛感した。

今では「間違いは端的に指摘して、気になるところは提案してくれる人」ととらえ方が変わった。


もう一つ振り回されていたケースがあった。
役職は僕の2つ上で、よく一緒にビデオ会議をする人の話だ。

この会社では連絡は基本チャットで行う。そしてメンションという「@名前」とつけて送ることで相手に通知が行く機能があり、緊急のときは必ずつけるようにしている。

以前その人がビデオ会議に遅れたときに、僕にメンションをつけずに遅れる旨をチャットしてきた。通知が来なかったので僕は気づかずにすごく慌てていた。
気づいたあとも「僕が見落とした」「チャット画面を開かなかったのは失敗だ」など自分を責めた。冷静に考えれば、遅れたこともメンションつけなかったこともその人の落ち度だ。だがスキーマが発動していた僕は自分が悪いと思いこんだ。

忙しい人なので遅れることはその後も何回かあり、同様な場面ではほぼ毎回メンションをつけてこなかった。
流石に変だと思い始めたころにはスキーマ療法も進んでおり、以降のビデオ会議では自動思考に邪魔されずに観察することができた。

他の場面ではちゃんと必要なときにメンションをつけていて、ビデオ会議に遅れるときにはつけない。「遅れる」ことを知られたくないという意識が働いているんなじゃないか。
もしかしたら「遅れる」はその人のスキーマを刺激するトリガーなのかもしれない。観察した結果そんなふうに考えた。

ただそれ以上は考えずに「これはこの人の問題で僕には関係ないな」ととらえるよことで落ち着いた。
チャットを確認すればいいだけで、めんどくさいが致命的に困ることはないから放っておくつもりだ。アドラーの「課題の分離」はこういうことなのかな。

自分の感情とは切り離して相手を見ることができるようになり、心が疲れなくなったこともうれしい。
これまでは「あの人が○○だったら僕は…」と自分の(スキーマへの)影響をいちいち考えていた。だからこそ人を理想化することもあったのだろう。

スキーマ療法を始めてから、好きになった人も嫌いになった人も興味をなくした人もいる。その変化はやはり少し負担になっている。吐き出すことは吐き出したので、明日温泉で洗い流してくる。

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