「俺は欠けた人間にふさわしい道を選んできたのでは?」

欠陥スキーマについて考える時アレックスと尾形百之助が浮かんでくる。どちも創作のキャラクターだ。

レオス・カラックス監督の「ポンヌフの恋人」という映画がある。主人公のアレックスは劇中自分の指を散弾銃で撃ち抜く。唐突に挿入されるその場面を見て僕は「彼は何かが欠けていないと安心できないんだ」と感じた。説明はないので合っているかは知らない。

ただ冒頭アレックスが車に足を轢かれる場面から始まり、改修予定のポンヌフ橋の上で恋が繰り広げられ、傷が治ったあとにわざわざ自分の指を吹き飛ばしていることからそう解釈した。そしてひどく心を揺さぶられた。僕も何かが欠けていないと安心できない。

尾形は最近最終回を迎えた「ゴールデンカムイ」という漫画のキャラクター。彼は最後に「俺は欠けた人間なんかじゃなくて、欠けた人間にふさわしい道を選んできたのでは?」と気づいて自殺する。

彼は母親、父親、出来の良かった弟を殺している。「自分は愛されなかった」という理由で凶行を重ねるが、実は逆だった。「愛されなかった」ことにしたいという思いが先にあり、それにふさわしい行動をしているだけだった。こんなことをする人間は愛されなかったに違いない。

僕は最近は「こんなんじゃダメだ」と感じることが多いが、結局は何のため?そう考えると「安心したいから」だと思う。
自分は欠けているから、ダメな部分を見つけて安心する。というメカニズム。

悪いわけではない。僕は自分で選択することには何でもメリットがあると考えている。自分をダメだと断じることで、欠けた心が満たされる。
ただデメリットもあるというだけ。心が穴だらけだから、いくら注いでもすぐまた空になる。その繰り返し。

何にでもメリットとデメリットがあり、それを踏まえて判断すればいい。現状デメリットが致命的なので変えていきたい。

やり方は前回の記事と変わらずで、まずは感じたこと一つひとつと向き合っていこう。そして否定せず、0か100にならないように調節していく。
といってもそこがゴールではない。「欠けている」だけ解消して「欠けていないオレ」になったところで物足りないだろう。コンパスで円を引きたいんじゃない。

僕は自分を変えるためにチャレンジする人が好きなのかもしれない。と昨日友人と話していて気がついた。
合理的でなくても仕事を辞めるというチャレンジした自分が好きだし、その気持ちが分かる人と一緒にいたい。

最近気になっている人もそういう意味なのかなあと思った。
壊れた橋を修理しただけではきっと僕は満足しない。そんなことどうでも良くなるくらい、何が好きって言えるようにしたい。橋を渡ったさきで、どんな景色を僕は見たいんだろう。

といっても先ばかり見て崩れては意味がない。まずは足場を整えることだ。これまでもやってきた。順番に、再現性を手に入れていこう。

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