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綿毛のように手放していく

「こんな僕」が枕詞についている。
自己肯定感が低いから、そのままでいることが不安で仕方ない。付加価値を提供できないと存在価値がない。そう無意識に刷り込まれている。
こんな僕だから「がんばらないと」「優等生でいないと」そして「誰かの役に立たないと」いけない。強迫観念のように思い込んできた。

そう、こんな僕は誰かの役に立たないといる意味がない。だから必死だった。僕の務めている会社では、障害のある方が通ってきて就職のための訓練をしている。僕はこれまで障害対策プログラムを作り、利用者の前で行ってきた。

障害者雇用で働いている自分の体調管理や業務整理などを伝えることで、これからの参考にしてほしい。そんな名目だ。
ずっと誰かの役に立てることがモチベーションだった。感謝されることも嬉しくて、その度さらにがんばってきた。模範的な精神障害者だったと思う。

それがいつからかできなくなっていった。みんなの前で話している自分が、どこか他人みたいに思えてきた。
こんな僕だから誰かの役に立たなくてはいけない。これは自己犠牲のスキーマから出てきた気持ちだった。
誰かのために取捨選択したストーリーが次第に心から離れていった。

なんでだろう。切り捨てた要素の方に自分を感じるようになってきた。それまでは障害者でいればよかった。双極性障害があって、引きこもりで、就労移行を利用して、障害者雇用で働いている。
その文脈だけで話ができていた。でもだんだんと個別性が強くなり、齟齬が生じてきた。

それは主語が「障害者」ではなく「僕」になってきたためだ。障害者雇用で働いているからではなく「僕」がどう働きたいか。双極性だからではなく「僕」が何をしたいか。それが前面に出てくるようになった。

そうすると、障害者雇用や双極性という枠からはみ出すことが増えてきた。その中には治療として推奨されないこともたくさんある。でもそれが「僕」の素直な気持ちだ。

そして次第に優等生的な障害者像に無理が生じてきた。こんな僕だから優等生でなければいけない。そうやって駆り立ててきたけど、もう自分を犠牲にしてまで、誰かの役に立つことはできない。

戸惑いもあったけど、いい方向だと思っている。これまでどれだけ人の役に立っても満足がなかった。立派なプログラムを作っても、いい感想をもらっても。それは泡と消えてしまうだけだった。

感謝されることは嬉しい。それも素直な気持ちだ。それでも自己犠牲より、僕は僕の物語を話したい。誰かのために加工したきれいなストーリーより、不格好でも僕の物語を。これが今の僕の正直な思いだ。だから手放そう。自己犠牲の心を。

過去は否定しない。これまでやってきたことで繋がれた人もいる。自分の気持ちと関係なく、やったことは返ってくる。それも受け止めよう。ただ、今は自分を優先したいというだけのこと。

自己犠牲の気持ちが自分を苦しめたとしても、同時に大切なものも僕にくれた。ありがとう。
がんばった結果は風に任せよう。これまでのことが、これからどこかで花を咲かせますように。そんな思いを込めて。今、綿毛のように手放していく。

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