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続:調子いいと躁の違い

この記事は前回の続き。僕は躁状態といい状態の違いを「孤独が平気かどうか」としたけど、少し変える。新しい言葉は「個で完結しているか」だ。

意味は変わらないがよりフラットな表現にした。
「孤独」にも「平気」にも含みの意味や感情が入りブレる余地があるからだ。

対して「個」や「完結」には感情があまり入らない。反対の意味を考えてみるとわかるかな。「平気」も「平気じゃない」も主観が強いが、「完結」「完結してない」だと客観性が強くなる。

基準は客観性が大事になる。特に僕には。感情に振り回されてここまできたんだから。

さて、躁といい状態の違いをもう少し進めていく。


「個で完結」するってどういうことだ?つまり躁のときは個で完結してないってことなのかな。
そう考えたときロイコクロリディウムという寄生虫を思い出した。

その寄生虫はカタツムリに寄生する。
寄生すると普段は葉っぱの裏に隠れているカタツムリを操って、天敵である鳥が視認できる場所まで移動させる。さらにカタツムリの目玉を極彩色に光らせて鳥にアピールし、首尾よくカタツムリを食べさせた後はその鳥に寄生する。

そんな寄生虫に親和性を感じる。僕のスキーマは「見捨てられ」と「無能」が中心で、そのために「有能であれば受け入れてもらえる」という思いがある。根拠などなく、ただ縋りたいだけの思い。

躁状態のときは一見エネルギーはあるが、スキーマが活性化している。と感じている。
普段は隠れているのにスキーマに操られ、有能であれば見捨てられない!という思いで自分をアピールする。不自然に目を光らせて。

いい状態とは言えないよね、これは。

では「個で完結」しているとはどういうことか。
「誰かに受け入れられる」ために動くのは、目的が他人の中にあるということだ。
それに対して目的を自分の中に持てるとき、僕はそれをいい状態だと感じている。

noteがわかりやすいかもしれない。noteでは僕は自分の言葉で書くことを目的にしている。どっかの本に載ってることじゃなく、自分の定義を作りたい。だから冒頭のように細かい言葉の違いも納得するまで考える。
それを人がどう感じるかは二の次だ。個で完結してると言える。

といっても反応に一喜一憂はする。いいねやコメントがつけば嬉しいし、反応が0の時はやっぱり悲しい。他の人のnoteを参考にすることもよくある。
自分の言葉にするという個人的な目的が完結した上で、反応や他の意見も参考にするという順番が保てていればそれでいい。

逆に人の反応が欲しくて思ってもないことを書いたり、わざと炎上させたりするようなときは状態が良くないと言える。他人が1番になっている。

これって結局躁だけじゃなさそうだ。うつのときも同じ。個で完結できない。
やはり早期不適応スキーマが根底にあって、その上に精神的な不調が生じてるんだろうなあ。全てではないが大部分はそうだと考えてよさそうだ。

なので「個で完結しているか」は躁に限らずうつも含めた精神状態のバロメータに使えそう。

こうやって書いてみると、別に珍しい意見ではない。それでもよくて、誰かが言ったことでも自分の言葉にするのが僕の目的。そこがぶれなければいい。
だから、今はいい状態だと言えるんじゃないかな。

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